五月の風が、若葉の香りを運んでいた。昼休みの校門前には、ひとりの少女の姿があった。
愛桜は制服のポケットから、丁寧に折り畳まれた署名用紙を取り出す。その指はわずかに震えている。紙の端が少しくたびれていた。
「この桜、守りたいんです。署名、お願いします……!」
彼女の声はかすれていたが、どこか切実だった。
道行く生徒たちは一瞬足を止めるものの、すぐに通り過ぎていく。
「……道路になるんだろ? 仕方なくね?」
誰かがそうつぶやくと、周囲に小さな笑いが広がった。
だが愛桜は笑わなかった。唇をきゅっと結び、まっすぐ前を向いた。
「それでも、残したいんです」
その声に嘘はなかった。でも、その強さは、琥太郎にとっては眩しすぎた。
少し離れた木陰から、琥太郎はその様子を見ていた。手には愛桜から渡された数枚のビラが握られている。
(無理だ……俺が配ったって、どうせ笑われるだけだ)
胸の奥がざわついた。
誰かの目に晒されるのが怖かった。笑われるのも、からかわれるのも嫌だった。
放課後。校門の外にはすでに、町の署名活動に向かう準備をしている面々が集まっていた。
「琥太郎、駅前でこれ、お願い」
静が差し出してきたのは、十枚近くのビラと署名用紙。印刷された地図には、立ち位置の指示まで細かく記されていた。
大希はすでに手慣れた様子で、通行人に声をかけていた。
「……うん、わかった」
琥太郎はビラを受け取ると、鞄にしまい、そのままゆっくりと人混みの中へ歩き出した。
だけど――足が向かった先は、駅前ではなかった。
たどり着いたのは、学校の近くの古びた自販機の裏手。
人通りもなく、声をかけられることもない、狭い路地。
琥太郎は鞄からビラと署名用紙を取り出し、じっとそれを見つめた。
「……ごめん」
小さくつぶやいて、用紙を地面にそっと置いた。
紙は風にあおられて、コンクリートの地面をかすかに滑った。
その場を離れながら、琥太郎は足元の影を見つめた。何も言われていないのに、誰かに責められているような気がしてならなかった。
翌朝、教室。琥太郎は自席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
いつもと変わらない朝。変わらない風景。けれど、自販機裏に置き去りにした署名用紙のことが、頭の隅から離れなかった。
そのとき、後ろから優しい声が届いた。
「おはよう、琥太郎君」
振り返ると、愛桜が笑っていた。手には、また新しい署名用紙が握られている。
「昨日、配ってくれてありがとう。けっこう集まったみたい」
喉がつまった。
(……気づいてないのか、それとも……)
言い訳を探そうとして、何も言えなかった。
昼休み、廊下の隅で真季が紙を片手に走ってきた。
「ねえねえ、これって桜の署名のやつでしょ?」
琥太郎の胸がドクンと跳ねる。
「雨に濡れてたけど、読めるよ? 冗談かと思ったけど……ほんとにやるんだね!」
笑顔で言う真季に、何も返せなかった。
彼女はそのまま走り去り、放送室に向かった。
数分後、全校放送が校舎に響き渡る。
『えーっと、みんなー! 一本桜の署名、募集中です! 興味ある人は昇降口へー!』
教室は一気にざわついた。教師が慌てて放送室へ向かう足音が、廊下に響いていく。
琥太郎は机にうつ伏せたまま、顔を上げられなかった。
(……やめてくれよ……)
でも、その放送を聞いた生徒たちの何人かが、昼休みに昇降口へ向かった。
そこには愛桜がいた。制服の袖をまくり、署名用紙を抱えている。
戸惑いながらも、数人の生徒が名前を書き始めた。
その様子を、琥太郎は廊下の影から見ていた。
ただ、見ていることしかできなかった。
(俺が捨てたのに……)
そのとき、雅がカメラを肩に提げて現れた。
「主演は僕じゃなかったかぁ……でもまあ、いいか」
言いながら、雅はスマホで撮影を始める。愛桜の真剣な横顔、生徒たちの署名風景。舞台部の雅にとっては、まるで舞台裏のドキュメンタリーのようだった。
「町内掲示板に投稿してみるか。タイトルは……『桜の勇者たち』」
勝手に名前をつけて、雅は楽しそうにスマホを操作している。
その夜。町内掲示板はざわついた。
〈署名活動ってマジ?〉
〈あの桜、残せたらいいな〉
〈ちょっと感動した〉
思いがけない反響に、愛桜は驚きながらも笑っていた。
そして、琥太郎の胸には、消えない痛みが残った。
放課後、昇降口にはたくさんの生徒が集まっていた。いつもより活気づいた空気の中、愛桜は署名用紙を胸に抱きしめ、丁寧に一人ひとりに頭を下げていた。
「ありがとうございます、本当に……」
頬は少し紅潮していた。けれど、嬉しそうだった。
琥太郎は、その光景を少し離れた場所から見つめていた。自分が捨てたあの用紙。雨に濡れ、誰にも拾われずに終わっていたかもしれなかった。
でも、今――こうして人が集まっている。
その中心に、確かに愛桜がいた。
「これだけあれば、町議会に出せるな」
そう言って現れたのは大希だった。無口だが、どこか安心感のある男だ。愛桜は頷き、束ねられた署名用紙を抱きしめた。
「でも……まだ、足りないかもしれない」
その言葉に、大希は少しだけ口元を緩めた。
「なら、集めるだけだろ」
その後ろから静がタブレットを手に現れる。
「次の集計地点と予定、まとめてある。これに沿って動けば、効率は良くなるはず」
淡々とした声に、愛桜が思わず笑った。
「ありがとう、静ちゃん」
その輪の中に、琥太郎の居場所はなかった。
いや、あるのに、自分で入れないだけだった。
――俺は、逃げた。
その事実だけが、足元に根を張るように居座っている。
夜。布団に入っても、眠れなかった。
頭の中には、あの時の自分の背中と、笑っていた愛桜の顔が交互に浮かぶ。
(……俺は、なんで逃げたんだ)
問いかけても、答えは返ってこなかった。
翌朝、登校して教室に入ると、愛桜が微笑んでいた。
「おはよう、琥太郎君。今日も、頑張ろうね」
その笑顔に、胸が軋む。
言えなかった。何も、言えなかった。
放課後、仲間たちは昇降口に集まっていた。大希は腕を組み、静はタブレットで計画を見直し、真季は冗談を交えながら声を張り上げていた。
雅はカメラを構え、「今日は主役じゃないけど裏方も悪くない」と笑っている。
その輪の中に、入れなかった。
ふと、琥太郎の足が自販機裏に向かっていた。以前、用紙を捨てた場所。
そこに、紙はもうなかった。代わりに、小さく折れたペンが転がっていた。
それを拾い上げ、ぎゅっと握る。
(……次は、逃げない)
言葉にはならなかった。でも、胸の奥に小さな火が灯った気がした。
翌日の昼休み。校門前に立つ琥太郎の姿があった。
足は震えていた。心臓が喉から飛び出しそうだった。
「……署名、お願いします。桜を……守りたいんです」
声が震え、数人の生徒が笑いながら通り過ぎていく。
そのとき、横に立った愛桜が、同じ言葉を重ねた。
「この桜を守りたいんです。……どうか、お願いします」
その声に、ふと足を止めた生徒が、一人、また一人と名前を書いていく。
琥太郎は深く頭を下げた。
「……ありがとう」
愛桜が、風に髪をなびかせながら、優しく笑った。
その笑顔に、ようやく小さな一歩を踏み出せた気がした。
愛桜は制服のポケットから、丁寧に折り畳まれた署名用紙を取り出す。その指はわずかに震えている。紙の端が少しくたびれていた。
「この桜、守りたいんです。署名、お願いします……!」
彼女の声はかすれていたが、どこか切実だった。
道行く生徒たちは一瞬足を止めるものの、すぐに通り過ぎていく。
「……道路になるんだろ? 仕方なくね?」
誰かがそうつぶやくと、周囲に小さな笑いが広がった。
だが愛桜は笑わなかった。唇をきゅっと結び、まっすぐ前を向いた。
「それでも、残したいんです」
その声に嘘はなかった。でも、その強さは、琥太郎にとっては眩しすぎた。
少し離れた木陰から、琥太郎はその様子を見ていた。手には愛桜から渡された数枚のビラが握られている。
(無理だ……俺が配ったって、どうせ笑われるだけだ)
胸の奥がざわついた。
誰かの目に晒されるのが怖かった。笑われるのも、からかわれるのも嫌だった。
放課後。校門の外にはすでに、町の署名活動に向かう準備をしている面々が集まっていた。
「琥太郎、駅前でこれ、お願い」
静が差し出してきたのは、十枚近くのビラと署名用紙。印刷された地図には、立ち位置の指示まで細かく記されていた。
大希はすでに手慣れた様子で、通行人に声をかけていた。
「……うん、わかった」
琥太郎はビラを受け取ると、鞄にしまい、そのままゆっくりと人混みの中へ歩き出した。
だけど――足が向かった先は、駅前ではなかった。
たどり着いたのは、学校の近くの古びた自販機の裏手。
人通りもなく、声をかけられることもない、狭い路地。
琥太郎は鞄からビラと署名用紙を取り出し、じっとそれを見つめた。
「……ごめん」
小さくつぶやいて、用紙を地面にそっと置いた。
紙は風にあおられて、コンクリートの地面をかすかに滑った。
その場を離れながら、琥太郎は足元の影を見つめた。何も言われていないのに、誰かに責められているような気がしてならなかった。
翌朝、教室。琥太郎は自席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
いつもと変わらない朝。変わらない風景。けれど、自販機裏に置き去りにした署名用紙のことが、頭の隅から離れなかった。
そのとき、後ろから優しい声が届いた。
「おはよう、琥太郎君」
振り返ると、愛桜が笑っていた。手には、また新しい署名用紙が握られている。
「昨日、配ってくれてありがとう。けっこう集まったみたい」
喉がつまった。
(……気づいてないのか、それとも……)
言い訳を探そうとして、何も言えなかった。
昼休み、廊下の隅で真季が紙を片手に走ってきた。
「ねえねえ、これって桜の署名のやつでしょ?」
琥太郎の胸がドクンと跳ねる。
「雨に濡れてたけど、読めるよ? 冗談かと思ったけど……ほんとにやるんだね!」
笑顔で言う真季に、何も返せなかった。
彼女はそのまま走り去り、放送室に向かった。
数分後、全校放送が校舎に響き渡る。
『えーっと、みんなー! 一本桜の署名、募集中です! 興味ある人は昇降口へー!』
教室は一気にざわついた。教師が慌てて放送室へ向かう足音が、廊下に響いていく。
琥太郎は机にうつ伏せたまま、顔を上げられなかった。
(……やめてくれよ……)
でも、その放送を聞いた生徒たちの何人かが、昼休みに昇降口へ向かった。
そこには愛桜がいた。制服の袖をまくり、署名用紙を抱えている。
戸惑いながらも、数人の生徒が名前を書き始めた。
その様子を、琥太郎は廊下の影から見ていた。
ただ、見ていることしかできなかった。
(俺が捨てたのに……)
そのとき、雅がカメラを肩に提げて現れた。
「主演は僕じゃなかったかぁ……でもまあ、いいか」
言いながら、雅はスマホで撮影を始める。愛桜の真剣な横顔、生徒たちの署名風景。舞台部の雅にとっては、まるで舞台裏のドキュメンタリーのようだった。
「町内掲示板に投稿してみるか。タイトルは……『桜の勇者たち』」
勝手に名前をつけて、雅は楽しそうにスマホを操作している。
その夜。町内掲示板はざわついた。
〈署名活動ってマジ?〉
〈あの桜、残せたらいいな〉
〈ちょっと感動した〉
思いがけない反響に、愛桜は驚きながらも笑っていた。
そして、琥太郎の胸には、消えない痛みが残った。
放課後、昇降口にはたくさんの生徒が集まっていた。いつもより活気づいた空気の中、愛桜は署名用紙を胸に抱きしめ、丁寧に一人ひとりに頭を下げていた。
「ありがとうございます、本当に……」
頬は少し紅潮していた。けれど、嬉しそうだった。
琥太郎は、その光景を少し離れた場所から見つめていた。自分が捨てたあの用紙。雨に濡れ、誰にも拾われずに終わっていたかもしれなかった。
でも、今――こうして人が集まっている。
その中心に、確かに愛桜がいた。
「これだけあれば、町議会に出せるな」
そう言って現れたのは大希だった。無口だが、どこか安心感のある男だ。愛桜は頷き、束ねられた署名用紙を抱きしめた。
「でも……まだ、足りないかもしれない」
その言葉に、大希は少しだけ口元を緩めた。
「なら、集めるだけだろ」
その後ろから静がタブレットを手に現れる。
「次の集計地点と予定、まとめてある。これに沿って動けば、効率は良くなるはず」
淡々とした声に、愛桜が思わず笑った。
「ありがとう、静ちゃん」
その輪の中に、琥太郎の居場所はなかった。
いや、あるのに、自分で入れないだけだった。
――俺は、逃げた。
その事実だけが、足元に根を張るように居座っている。
夜。布団に入っても、眠れなかった。
頭の中には、あの時の自分の背中と、笑っていた愛桜の顔が交互に浮かぶ。
(……俺は、なんで逃げたんだ)
問いかけても、答えは返ってこなかった。
翌朝、登校して教室に入ると、愛桜が微笑んでいた。
「おはよう、琥太郎君。今日も、頑張ろうね」
その笑顔に、胸が軋む。
言えなかった。何も、言えなかった。
放課後、仲間たちは昇降口に集まっていた。大希は腕を組み、静はタブレットで計画を見直し、真季は冗談を交えながら声を張り上げていた。
雅はカメラを構え、「今日は主役じゃないけど裏方も悪くない」と笑っている。
その輪の中に、入れなかった。
ふと、琥太郎の足が自販機裏に向かっていた。以前、用紙を捨てた場所。
そこに、紙はもうなかった。代わりに、小さく折れたペンが転がっていた。
それを拾い上げ、ぎゅっと握る。
(……次は、逃げない)
言葉にはならなかった。でも、胸の奥に小さな火が灯った気がした。
翌日の昼休み。校門前に立つ琥太郎の姿があった。
足は震えていた。心臓が喉から飛び出しそうだった。
「……署名、お願いします。桜を……守りたいんです」
声が震え、数人の生徒が笑いながら通り過ぎていく。
そのとき、横に立った愛桜が、同じ言葉を重ねた。
「この桜を守りたいんです。……どうか、お願いします」
その声に、ふと足を止めた生徒が、一人、また一人と名前を書いていく。
琥太郎は深く頭を下げた。
「……ありがとう」
愛桜が、風に髪をなびかせながら、優しく笑った。
その笑顔に、ようやく小さな一歩を踏み出せた気がした。



