花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 けれど――その静けさのなかでも、愛桜は笑っていた。
 微笑みは柔らかく、どこまでも静かだった。
 その笑顔が、逆に痛かった。

 「だからね、家族とも話して……少しだけ先延ばしにすることにしたの」
 そう言って、彼女はそっと視線を戻す。
 「桜が咲くまでは……歩きたいなって」

 琥太郎はその言葉の意味を、すぐには受け止めきれなかった。
 「でも、それって……」
 「うん。リスクもある」
 彼女は遮るように頷いた。

 「もしかしたら、春を迎える前に、また倒れちゃうかもしれない」
 「それでも……」
 愛桜の声が、わずかにかすれる。
 それでも、目は逸らさずにまっすぐ前を向いていた。

 「桜が見たいの。あの桜の下で、またみんなと笑いたいの」

 ――あの桜。

 道路拡張の計画で切り倒される予定の、あの一本桜。
 春、愛桜と出会ったとき、彼女が最初に願った言葉。
 「また、来年も一緒に見よう」――その約束。

 彼女は、あの場所で笑っていたいと願っていた。
 来年の春という、目に見えない季節を、命がけで目指そうとしている。
 それほどまでに、あの桜は彼女の希望だった。

 琥太郎は――言葉を失った。

 止めたい気持ちがあった。
 やめてほしい、無理をしないでほしい。
 成功率五割? そんな賭け、怖くてたまらない。
 ただでさえ脆い彼女の命が、春を待たずに潰えてしまうかもしれないなんて――考えるだけで息が詰まる。

 でも、彼女の瞳の奥に宿る光は、本物だった。
 逃げることもできるはずだった。
 手術して、すべてを委ねてしまうこともできた。
 それでも――彼女は「春まで歩く」という選択をした。

 「……俺が咲かせてみせるよ」
 琥太郎の口から、自然と声がこぼれた。

 最初は、自分でも気づかないほど小さな声だった。
 だけど、その言葉は確かに彼の奥底から湧き出た決意だった。

 愛桜が、目を見開いた。
 驚いたように、まばたきをする。

 琥太郎はもう一度、はっきりと口にした。
 「俺が咲かせてみせるよ。あの桜。絶対に、来年も残してみせる」

 病室の空気が、ふっと変わった。
 誰かの心臓の音が、静かに聞こえてきそうなほど、静まり返っていた。

 愛桜は一拍遅れて、目を細めた。
 その瞳の奥が、ゆっくりと潤んでいく。
 けれど、それは悲しみではなく、何かに満たされた証だった。

 「……ありがとう」
 その一言に、琥太郎の胸がじんと熱くなる。
 たった一言が、こんなにも重く、あたたかい。

 逃げ続けてきた自分が、初めて誰かに、約束を返せた気がした。

 愛桜はそっとノートを開き、あるページを琥太郎に見せた。
 そこには、色鉛筆で描かれた六人の姿。
 桜の木の下で、手をつなぎ、笑い合う――そんな一枚の絵だった。

 「これ、文化祭のときに描いたの。来年の春、みんなでここに集まれたらいいなって」
 その絵の中の人物たちは、皆生き生きと笑っていた。
 まるで、そこには“約束された春”が存在しているように思えた。

 琥太郎はその絵を見つめながら、ゆっくりと頷く。
 「集まろう。絶対に、ここで」
 言葉は短かったが、彼の中では無数の想いが渦巻いていた。

 窓の外では夜が深まり、遠くの街の灯りが静かに揺れていた。
 まるで春の桜を先取りするように、灯りはやわらかくきらめいていた。