翌朝、カーテン越しに届く光がやけにまぶしく感じた。
琥太郎は布団から出ることができなかった。
スマホの通知はゼロ。誰からの連絡もなかった。
教室に行くのが怖かった。あの視線を、言葉を、沈黙を――すべてが怖かった。
「風邪ってことで……」
呟く声は弱々しく、誰に向けたものでもなかった。
こたつの中に膝を抱え、昨日のことを何度も思い返す。ファイルを持って、校門前に立っていた自分。
そして――逃げ出した、あの瞬間。
(まただ。また、同じことを繰り返した)
自己嫌悪が胸に広がり、吐き気さえ覚える。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
母の声が聞こえたあと、足音が近づいてくる。
「琥太郎、友達が来てるわよ」
思わず身を縮めた。今は誰にも会いたくない。
ドアがノックされた。
「……いるか」
低く落ち着いた声。大希だった。
「開けろ。ドア越しでもいい」
琥太郎は、おそるおそる立ち上がり、ドアを少しだけ開けた。
大希は無言で、ビニール袋に入った濡れたファイルを差し出した。
昨日、琥太郎が持っていたはずの署名用紙。
水でふやけ、角が折れているが、中身はかろうじて読めた。
「拾った。……お前が投げたやつだ」
大希の言葉は、責めているわけではなかった。ただ、事実を告げているだけだった。
「……ごめん」
喉が締めつけられるように苦しかった。
言葉を探す琥太郎に、大希は続けた。
「謝るな。やり直せ。まだ終わってない」
そう言って、踵を返して帰っていった。
玄関先に残された琥太郎は、手の中のファイルをぎゅっと握りしめた。
ふやけた紙の重みが、昨日までの自分を突きつけてくる。
そのとき、ふと顔を上げると――雨は、もう止んでいた。
午後になって、琥太郎はゆっくり制服に袖を通した。
久々に通る通学路の風景は、昨日までと変わらず蝉の声に満ちていた。
でも、自分の心の中だけが――少しだけ、違っていた。
昇降口に入ると、愛桜の姿が目に入った。
ファイルを手に持ち、誰かに頭を下げていた。
その笑顔は少しだけ疲れていて、でも確かに前を向いていた。
(あんなに濡れたのに……また立ってるんだ)
琥太郎の足が、勝手に近づいていた。
「……おはよう」
小さな声だったが、愛桜はすぐに振り向いた。
「琥太郎君……!」
その目が、大きく見開かれる。
「……ごめん、俺、逃げた」
愛桜は首を横に振った。
「いいの。もう、いいよ。戻ってきてくれたから、それだけで」
そして、ふと差し出された琥太郎の手を、愛桜はそっと握り返した。
「ありがとう」
昼休み。教室の隅で琥太郎は、濡れてふやけたファイルをひとつずつ乾かしていた。
真季がそれを見て、「紙のスパだね」と冗談を言ったが、今回はすぐに訂正した。
「いや、あの、冗談じゃなくて……本気で頑張ってるってことね!」
雅はその様子をカメラ越しに撮っていたが、映像にはひとことだけこう書かれていた。
〈あの日、逃げた男の手が、今日また桜を掴んだ〉
静は何も言わなかった。ただ、再整理された進行表に、琥太郎の名前を新たに加えていた。
放課後、再提出の準備が始まった。
大希は再度、コピー機の前で黙々と作業を始めていた。
静は問答集のドラフトを読み上げ、真季は用語の読み間違いに突っ込みを入れていた。
その中心に、琥太郎がいた。
ゆっくり、でも確かに前を向いて、ファイルを手にしていた。
夜。窓の外には星が浮かび、風が涼しく吹いていた。
琥太郎はデスクライトの下で、ふやけた署名用紙の束を再度きれいに整えながら、ひとつひとつに目を通していた。
(誰かが書いてくれた名前。その一つひとつに、想いがある)
ようやく、それを自分の手で支えたいと思えた。
その夜、グループチャットに自分の手で初めて送ったメッセージが、短く表示された。
〈次の提出、僕が持っていきます〉
数秒後、既読が次々と並び、そして――
〈任せた〉
〈期待してるよー!〉
〈一枚でも落としたらタオルで縛るから〉
〈主役、譲ってあげるわ〉
最後に、愛桜のメッセージが届いた。
〈ありがとう。戻ってきてくれて、うれしい〉
画面の文字が、ゆらゆらと滲んだ。
(もう、逃げない)
強く、胸にそう刻んだ。
琥太郎は布団から出ることができなかった。
スマホの通知はゼロ。誰からの連絡もなかった。
教室に行くのが怖かった。あの視線を、言葉を、沈黙を――すべてが怖かった。
「風邪ってことで……」
呟く声は弱々しく、誰に向けたものでもなかった。
こたつの中に膝を抱え、昨日のことを何度も思い返す。ファイルを持って、校門前に立っていた自分。
そして――逃げ出した、あの瞬間。
(まただ。また、同じことを繰り返した)
自己嫌悪が胸に広がり、吐き気さえ覚える。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
母の声が聞こえたあと、足音が近づいてくる。
「琥太郎、友達が来てるわよ」
思わず身を縮めた。今は誰にも会いたくない。
ドアがノックされた。
「……いるか」
低く落ち着いた声。大希だった。
「開けろ。ドア越しでもいい」
琥太郎は、おそるおそる立ち上がり、ドアを少しだけ開けた。
大希は無言で、ビニール袋に入った濡れたファイルを差し出した。
昨日、琥太郎が持っていたはずの署名用紙。
水でふやけ、角が折れているが、中身はかろうじて読めた。
「拾った。……お前が投げたやつだ」
大希の言葉は、責めているわけではなかった。ただ、事実を告げているだけだった。
「……ごめん」
喉が締めつけられるように苦しかった。
言葉を探す琥太郎に、大希は続けた。
「謝るな。やり直せ。まだ終わってない」
そう言って、踵を返して帰っていった。
玄関先に残された琥太郎は、手の中のファイルをぎゅっと握りしめた。
ふやけた紙の重みが、昨日までの自分を突きつけてくる。
そのとき、ふと顔を上げると――雨は、もう止んでいた。
午後になって、琥太郎はゆっくり制服に袖を通した。
久々に通る通学路の風景は、昨日までと変わらず蝉の声に満ちていた。
でも、自分の心の中だけが――少しだけ、違っていた。
昇降口に入ると、愛桜の姿が目に入った。
ファイルを手に持ち、誰かに頭を下げていた。
その笑顔は少しだけ疲れていて、でも確かに前を向いていた。
(あんなに濡れたのに……また立ってるんだ)
琥太郎の足が、勝手に近づいていた。
「……おはよう」
小さな声だったが、愛桜はすぐに振り向いた。
「琥太郎君……!」
その目が、大きく見開かれる。
「……ごめん、俺、逃げた」
愛桜は首を横に振った。
「いいの。もう、いいよ。戻ってきてくれたから、それだけで」
そして、ふと差し出された琥太郎の手を、愛桜はそっと握り返した。
「ありがとう」
昼休み。教室の隅で琥太郎は、濡れてふやけたファイルをひとつずつ乾かしていた。
真季がそれを見て、「紙のスパだね」と冗談を言ったが、今回はすぐに訂正した。
「いや、あの、冗談じゃなくて……本気で頑張ってるってことね!」
雅はその様子をカメラ越しに撮っていたが、映像にはひとことだけこう書かれていた。
〈あの日、逃げた男の手が、今日また桜を掴んだ〉
静は何も言わなかった。ただ、再整理された進行表に、琥太郎の名前を新たに加えていた。
放課後、再提出の準備が始まった。
大希は再度、コピー機の前で黙々と作業を始めていた。
静は問答集のドラフトを読み上げ、真季は用語の読み間違いに突っ込みを入れていた。
その中心に、琥太郎がいた。
ゆっくり、でも確かに前を向いて、ファイルを手にしていた。
夜。窓の外には星が浮かび、風が涼しく吹いていた。
琥太郎はデスクライトの下で、ふやけた署名用紙の束を再度きれいに整えながら、ひとつひとつに目を通していた。
(誰かが書いてくれた名前。その一つひとつに、想いがある)
ようやく、それを自分の手で支えたいと思えた。
その夜、グループチャットに自分の手で初めて送ったメッセージが、短く表示された。
〈次の提出、僕が持っていきます〉
数秒後、既読が次々と並び、そして――
〈任せた〉
〈期待してるよー!〉
〈一枚でも落としたらタオルで縛るから〉
〈主役、譲ってあげるわ〉
最後に、愛桜のメッセージが届いた。
〈ありがとう。戻ってきてくれて、うれしい〉
画面の文字が、ゆらゆらと滲んだ。
(もう、逃げない)
強く、胸にそう刻んだ。



