花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 鞄の肩紐からは、雨水がぽたぽたと垂れ、舗装された地面に小さな波紋を広げていた。
 足元はすっかり濡れていて、スニーカーの中で靴下がぬるりと音を立てる。
 それでも、愛桜の表情には安堵が浮かんでいた。心臓の痛みは、少しだけ遠のいていた。

 「……よく頑張ったな」
 その一言を、横にいた大希がぽつりと口にした。
 普段多くを語らない彼のその言葉に、真季がぱっと笑顔を見せる。

 「うん、濡れてボロボロのファイルだったけど……愛がこもってた!」
 びしょ濡れの髪を両手で絞りながら、彼女はくるりと回って空を見上げる。
 その顔には、疲れと一緒に、達成感がにじんでいた。

 静は黙って腕時計を見た。
 「タイムリミットぎりぎりだったけど、提出は間に合った。これで、あとは町の判断を待つだけ」
 その冷静な言葉の裏には、ほんの僅かに滲んだ安堵があった。
 彼女もまた、信じた時間を、ぎりぎりで掴み取ったのだ。

 愛桜は、その言葉に小さく頷いた。
 そしてふと、何かに導かれるように後ろを振り返る。
 ……そこに、琥太郎の姿はなかった。

 雨は、まだ止まなかった。

 その頃――
 琥太郎は、まだ校舎裏の階段に座っていた。

 制服は水を吸って冷たくなり、肩にかけた鞄の中でファイルが重たくなっていた。
 ページが波打ち、印刷された文字がにじんでいる。
 ファイルの端は濡れてよれて、今にも破れそうだった。

 琥太郎は、そのファイルを呆然と見つめていた。
 「……これ、もう……ダメだな」
 力なくこぼれた声に、自分の情けなさが混じる。
 何もしていない。いや、しようとして、結局また逃げただけ。

 気づけば、頬を伝っていたのは雨か、それとも涙か。
 判別できないほど、彼の目は赤く潤んでいた。

 「俺……また逃げたんだな」
 自嘲気味に呟いたその声も、風にかき消されてゆく。

 その夜。
 スマートフォンには、誰からの通知もなかった。
 グループチャットを開いても、真っ白な画面が広がるだけ。

 しばらくして、静からの簡潔な報告が表示された。
 〈資料は無事受理。次回の会合で議題に上がる予定〉
 それだけ。
 責める言葉も、皮肉も、なかった。
 ただの“報告”。
 ――だからこそ、痛かった。

 胸の中が締めつけられる。
 ああ、俺、見放されたんだな。
 そう思いかけたとき。ひとつだけ、個人チャットの通知が届いた。

 愛桜だった。
 たった一行のメッセージ。

 〈大丈夫。雨に濡れても、署名は残ったから〉

 その一文が、琥太郎の心に深く突き刺さる。
 責めていない。怒っていない。
 ただ、「大丈夫」と。
 その優しさが、どうしようもなく痛かった。

 (なんで……なんで俺、行けなかったんだろう)
 問いかけても、答えは出ない。
 残るのは、ぬぐえない後悔だけ。

 翌日。
 教室には、いつも通りの時間が流れていた。

 誰も、昨日のことに触れなかった。
 愛桜も、静も、大希も、真季も、雅も――普段通りの顔をしていた。
 それが、逆に優しくて、琥太郎は余計に息苦しさを感じた。

 だが、彼は心の中でひとつの言葉を刻み込んだ。
 ――次こそは、逃げない。

 教室の窓辺で、愛桜の後ろ姿を見つめながら。
 琥太郎は、誰にも聞こえないように、その誓いを繰り返していた。