花曇りの同盟──一本桜と六人の春涙物語

 港へ続く坂道は、夕暮れの光をゆるやかにまとい、遠くの海が淡くきらめいていた。舗装の割れた道の端を、琥太郎は気だるげに歩いていた。制服のシャツは風にふくらみ、前髪が目にかかっているのも気にせず、両手をポケットに突っ込んだまま。
  新学期が始まって数日。中学三年生になった実感はまだなかった。先生は進路の話ばかりだし、クラスメイトは顔ぶれこそ変わらないが、みんな妙に“受験生”らしくなった気がしていた。
  そんなこと、どうでもよかった。どうせこの町には何もない。コンビニが二軒、古びた図書館、そして――伐採予定の一本桜。
  坂を下る途中、ふと足が止まる。
  一本桜の前に、ひとりの少女が立っていた。制服の袖を風に揺らし、少し肩を丸めて木を見上げている。肩より長い髪がさらりと揺れ、顔立ちはどこか遠慮がちだが、目元には強い光が宿っていた。
  琥太郎は、思わずその横顔に見入った。
  ──誰だ?
  見覚えがない。もしかして、転校生?
 「……転校生?」
  思ったまま口にすると、少女は驚いたように振り返った。
 「えっと、はい。今日から、この中学に……」
  言葉の途中で小さく咳き込むと、制服の胸元を押さえて、無理やり笑顔を作った。ぎこちないその笑顔に、琥太郎の胸がわずかにざらりとした。
 「ここ、もうすぐ道路になるって聞いたから」
  少女が指差したのは、まさにその一本桜だった。花はすでに盛りを過ぎ、枝先にわずかに残る薄紅が、暮れゆく空に溶けていく。
 「でも、この桜、すごくきれいだった。だから――また来年も、一緒に見たいなって」
  あまりにも自然に、唐突に告げられたその言葉に、琥太郎は思わず目を逸らした。
  「来年も一緒に」だなんて、そんな約束、したことがない。
  彼女は「愛桜」と名乗った。
  名前の響きと、桜を見つめる目が不思議と重なっていた。
 「……俺、琥太郎」
  気づけば、名乗っていた。
  咄嗟に名前を返した自分に驚きながらも、彼女の笑顔が胸にじんわり広がっていく。
  二人のあいだを、風が通り抜けた。一本桜から舞い落ちた花びらが、一枚だけ愛桜の肩に触れて、すぐにふわりと宙へ舞い上がった。
 「この町、退屈だと思ってたけど……桜があるだけで、ちょっと好きになれそう」
  愛桜がそうつぶやいた。
 「退屈な町だよ。コンビニも二軒しかないし」
  琥太郎が苦笑まじりに言うと、愛桜はくすっと笑った。
 「退屈な町だから、こういう桜が目立つんだよ、きっと」
  返す言葉がなかった。どこか達観したようなその言い回しに、琥太郎は言葉をのみ込んだ。
  坂を下りきると、海の匂いが強くなる。港の灯台が小さく光り始め、カモメの鳴き声が空に消えていく。
  並んで歩きながらも、会話はほとんどなかった。でも、不思議と気まずさはなかった。隣にいるのが知らない誰かであることすら、どうでもよくなるほどの空気があった。
  交差点の手前で、愛桜が制服の胸ポケットから写真を取り出した。
 「これ……父が撮った写真。満開の桜と、私と母と、父」
  その写真には、今はもう見られない満開の一本桜と、笑顔の三人が写っていた。
 「だから、また来年も……この桜を見たいの。家族はもう、私しかいないけど」
  笑っていたはずの愛桜の声が、ふと揺れる。
  琥太郎は言葉を見つけられないまま、うなずいた。
 その日の夜、琥太郎はなかなか眠れなかった。窓の外に浮かぶ月の光が、街灯と交じって部屋の壁に淡く揺れている。
  愛桜――あの転校生のことが頭から離れなかった。
  また来年も一緒に――。
  その言葉が、なぜこんなにも重たく響くのか、琥太郎自身にもわからなかった。
  自分は昔から、面倒なことから逃げるのが得意だった。
  宿題も、部活も、人付き合いも。何かを守るなんて、考えたこともなかった。
  けれど、あの笑顔を思い出すたびに、胸の奥に小さな熱が灯る気がした。
  翌朝、登校すると、愛桜が昇降口で誰かと話しているのが見えた。息を切らしながらも、笑顔で会釈していた。
  「おはよう、琥太郎君」
  名前を呼ばれて、思わず足が止まった。
  「……おはよ」
  返事をする自分に驚きつつも、昨日のようなぎこちなさはなかった。
  「放課後、また桜、見に行こうよ。昨日、あんまりちゃんと見られなかったから」
  そう言って見せた笑顔は、どこかはかない。けれど、強かった。
  「……うん」
  答える声が、昨日よりも自然だった。
  その日の授業中も、ノートに落書きをしながら、琥太郎はぼんやりと愛桜のことを考えていた。
  なぜ、あんなにまっすぐ桜を見つめていたのか。
  なぜ、あんなに優しい目で笑うのか。
  わからないまま、時間が過ぎていく。
  放課後、校門の前に立っていると、愛桜が少し遅れてやってきた。
  「ごめん、ちょっと保健室で休んでたの。大丈夫、今日は体調いいから」
  そう言って歩き出す姿に、琥太郎は何も聞かなかった。ただ、並んで坂を下った。
  途中、近所の老人が声をかけてきた。
  「あの桜、今年で最後らしいのぉ。道路になるんじゃと」
  その言葉に、愛桜の表情が一瞬だけ曇った。
  でも、すぐに首を横に振って、笑った。
  「それでも……今のうちに、たくさん見ておきたいな」
  一本桜の前に立つと、二人はしばらく無言だった。風が吹くたび、枝先の花びらがひらひらと落ちていく。
  愛桜はゆっくりと幹に触れた。
  「強いね、この桜。毎年咲いて、風にも負けない」
  琥太郎はうなずいた。けれど、心の中では何かがざわついていた。
  自分にはそんな強さはない。
  風に吹かれたら、簡単に逃げる。根を張る場所なんて、どこにもない。
  帰り道、愛桜の足取りが少し重たそうだった。
  「大丈夫?」
  声をかけると、彼女は微笑んで首を振った。
  「うん、ちょっと走っただけ。……でも、ありがとう」
  その言葉に、琥太郎はなぜか顔を背けてしまった。
  町の小さな商店街に差しかかると、愛桜が駄菓子屋を見つけて目を輝かせた。
  「わあ、懐かしい……! こういうの、最近見ないよね」
  ラムネを二本買って、路地裏のベンチに腰かけて飲んだ。炭酸が喉を刺激して、琥太郎は思わず笑った。
  「なんか、小学生みたいだな」
  「うん。こういう時間、好き」
  ラムネの瓶を並べて見上げると、夕陽がそれをオレンジに染めていた。
  別れ際、愛桜が桜のほうを見てぽつりと呟いた。
  「来年も、一緒に……って、覚えててね。ちゃんと、約束だよ」
  胸の奥が、ぎゅっと音を立てて締めつけられるようだった。
  ──守れないかもしれない。
  なぜそんなことを思ったのか、自分でもわからなかった。
  けれど、頷くことしかできなかった。
 その夜、琥太郎は布団に入っても、眠ることができなかった。
  窓の外には、淡い街灯の光が浮かんでいる。その下に、舞い落ちた桜の花びらが、風に吹かれてカーブを描いているのが見えた。
  ふと携帯を開くと、クラスの掲示板に、愛桜の自己紹介の書き込みが載っていた。
  ――名前:愛桜(あいら)
  ――趣味:散歩と写真
 「……写真、か」
  ぽつりとつぶやいて、思い出す。あのとき見せてもらった家族写真。満開の桜の下で、笑っている三人。
  その真ん中にいた彼女は、今と同じように笑っていた。
  その笑顔が、なぜか胸に残って離れない。
  あの桜も、きっと来年には切られてしまう。自分には関係ないと思っていた。
  でも、あの子は言った。来年も一緒に見ようと。写真のように、何気ない春をもう一度と願っていた。
  ――だから、約束した。
  今まで、自分から誰かと約束したことなんてなかった。逃げることばかりで、責任なんて持ちたくなかった。
  なのに、あの時、頷いてしまった。なぜか、嘘をつけなかった。
  そう思いながら窓を閉めると、ひとひらの花びらが風に舞って、手のひらにふわりと落ちた。
  まるで、誰かからの返事のように。
 「……また、明日」
  小さな声が夜に溶けていった。