「はぁ……」
俺、藤堂周は、今日も今日とて完璧な朝を迎えていた。窓から差し込む柔らかな朝日、鳥のさえずり、部屋に漂うアロマの香り。すべてが計算し尽くされたこの空間で、俺は静かに瞑想にふける。
そう、俺は自分を律することが得意な完璧主義者。日々のルーティンを何よりも大切にしている。朝食はきっちり350カロリー、昼食は500、夕食は600。運動も週に三回は欠かさないし、読書の時間も必ず設ける。他人の意見に左右されることなんてない。俺の人生は、俺が作ったルールで完璧にコントロールされている。
はずだったんだ。
「周くん、おはよー!」
ドアが勢いよく開き、そこに現れたのは、桜井環那。
「……おはよう」
俺の完璧な朝の始まりは、この声によって一瞬で崩壊する。環那は俺の幼馴染であり、今は訳あって同居している。訳あって、と言っても、ほとんど彼女が勝手に転がり込んできただけだが。
「ねぇねぇ、今日の朝ごはん、何? 昨日スーパーで買ったパン食べたいなぁ。あと、たまごサンドもいいよね。それに、朝からから揚げとかも最高じゃない? あ、でも、昨日食べたから違うものがいいかなぁ。周くんは何食べたい?」
彼女はマシンガンのように言葉を畳み掛ける。俺は聞きたくない。聞きたくないのに、彼女はどんどん俺のパーソナルスペースを侵食してくる。
「俺はいつものサラダとプロテインだ。お前は……」
「えー! 朝からそれだけ? だから周くん痩せてるんだよ! もっと栄養とらなきゃダメだよ! 私、周くんと一緒がいいな!」
他人と一緒が好き、という彼女の言葉に、俺は深くため息をついた。俺は孤高の存在でありたいのに、彼女は常に隣にいることを望む。それがどうにも理解できない。
「いいか、環那。俺のルーティンを崩すな。お前の好き勝手にさせるために、お前をここに住まわせているわけじゃない」
「えー、別に好き勝手にしてないもん。周くんと一緒にいるのが好きなだけなのに」
そう言って、環那は俺の作ったサラダを勝手に一口食べた。
「……っ」
俺は怒りを通り越して呆れた。俺の完璧な日課が、今、目の前で崩されている。
俺たちの関係は、幼馴染という枠を超えて、奇妙なバランスで成り立っている。昔から、彼女は俺の隣にいることが多かった。小学校、中学校、そして高校。進路まで一緒だ。
なぜかというと、環那は一人で何かを決めることができないのだ。「みんなと一緒がいい」が口癖で、その「みんな」の代表がいつの間にか俺になっていた。
そして、この同居生活も、彼女の突飛な発言から始まった。
『周くんのお家の隣に、変な人がいるって噂なんだ。私も、一人でいるのが怖いから、周くんと一緒に住みたい!』
俺は最初、断固として拒否した。しかし、彼女は家の前で三日三晩泣き続けた。雨の日も風の日も。
結局、しぶしぶと俺が折れて、彼女の荷物を俺の部屋に運び込むことになった。こうして、俺の完璧な日常は、無自覚な環那によって、少しずつ、しかし確実に侵食されていった。
俺の隣人には、環那が言うような『変な人』はいない。俺は知っていた。彼女が俺と一緒にいたくてついた、可愛いだけじゃない、巧妙な嘘だということを。
環那が学校の制服に着替えるのを待つ間、俺はリビングのソファで読書をしていた。彼女はいつも通りの可愛らしい笑顔で、俺の隣に座り込む。
「ねぇ、周くん。今日は一緒に帰ろうね」
「俺は生徒会の仕事がある。お前は涼太か彩音と帰ればいいだろ」
「えー、涼太くんと彩音ちゃんは、たまに二人だけで話したいことがあるみたいだから、邪魔したくないんだもん」
涼太と彩音は、俺たちのクラスメイトであり、生徒会のメンバーでもある。涼太は臨機応変で、他人のサポートが得意な、いわゆるムードメーカー。彩音は冷静沈着で、時にピリッとした緊張感を与える、生徒会副会長だ。
俺は涼太に、環那を頼むとメールを送る。
『頼む。放課後、環那を頼む』 『了解! 任せといて!』
涼太の頼もしい返信に、俺は少し安堵した。
しかし、その日の放課後。生徒会の仕事を終え、一人で帰ろうとしていた俺の前に、環那が立っていた。
「周くん、生徒会の仕事終わったんでしょ? 待ってたんだよ!」
「なぜ……」
「だって、一緒に帰ろうって言ったじゃん。約束は守るものだよ」
恩を忘れることが得意な彼女が、約束だけは律儀に守ろうとする。その理不尽さが俺の神経を逆撫でする。
「おい、涼太はどうした」
「涼太くんは、彩音ちゃんと生徒会のことで話すことがあるって言ってたから、先帰ったよ。私、邪魔したくないもん」
「……」
俺は何も言わず、環那の隣を歩いた。彼女は楽しそうに、今日の授業の話や、友達との話をする。俺は相槌も打たず、ただ歩く。それがいつもの日常だった。
家に着くと、環那は嬉しそうに「ただいま!」と大きな声を上げた。俺は疲労感に苛まれながら、自室に戻ろうとした。
「周くん、ちょっと待って!」
環那が俺の腕を掴んだ。
「何だ」
「今日、涼太くんと彩音ちゃんと三人で、放課後、一緒にカフェに行こうって言われたんだ。でも、周くんと一緒に帰りたかったから、断ったんだ。だから、周くん、私のために、何かしてくれない?」
俺は言葉を失った。彼女は、他人の好意を無下にしながら、自分の欲求を俺に押し付けてくる。これほど腹黒い人間を、俺は他に知らない。
「勝手にしろ。俺は関係ない」
「えー! そんなこと言わないでよ! 周くん、お願い!」
俺はため息をつき、彼女の腕を振り払った。
「環那。俺は、お前に振り回されるために生きているわけじゃない。お前は……」
その時、俺のスマホが鳴った。涼太からだ。
『周、環那といる?』
『ああ。いる』
『よかった。実は、彩音と喧嘩してさ。環那に相談に乗ってほしいんだ』
『……』
俺はスマホを環那に渡した。環那はスマホを受け取ると、涼太と話し始めた。俺はリビングを出て、自室に戻ろうとした。しかし、環那の言葉が俺の足を止める。
「え、涼太くん、彩音ちゃんと喧嘩しちゃったの? 大丈夫だよ、きっと仲直りできるよ。だって、二人はいつも一緒だもん。私、二人のこと、応援してるからね!」
環那は涼太に、優しい言葉をかけている。
その時、俺は気づいた。環那は、涼太と彩音が仲良くなるのが、心の底から嬉しそうだった。
両片想い。
涼太は彩音を、彩音は涼太を、お互いに想い合っている。しかし、お互いに気持ちを伝えられずにいる。そのことを、俺は知っていた。そして、環那も知っていた。
「もしもし、涼太くん。うん、大丈夫だよ。私が彩音ちゃんに、涼太くんのこと、ちゃんと言ってあげるから。だから、元気出してね」
環那の言葉に、俺は心臓を掴まれたような感覚に陥った。彼女は、涼太と彩音の幸せを、本当に願っている。
彼女は、俺といることを望む。それは、俺が好きなのか? それとも……。
俺は自室に戻り、ベッドに横になった。俺の頭の中は、環那のことでいっぱいだった。
彼女は、なぜ俺の隣にいたいのだろうか。本当に俺が好きなのか? それとも、ただ無防備に、誰かの隣にいたいだけなのか?
俺は、今まで、彼女を冷たい態度で拒絶してきた。彼女の行動は、俺の完璧な日常を崩す不協和音でしかなかった。
しかし、涼太と彩音に対する彼女の言葉を聞いて、俺は少しだけ、彼女のことを理解できたような気がした。
彼女は、みんなと一緒が好きなんだ。俺だけじゃなく、涼太や彩音も。
そして、彼女は、俺の隣にいることが、みんなといることと同じくらい、居心地がいいと感じているのかもしれない。
もしそうだとしたら、俺は……。
俺は、彼女のその可愛いだけじゃない、腹黒くて、意地悪で、無自覚な優しさに、知らず知らずのうちに、惹かれていたのかもしれない。

翌日。
朝食のテーブルで、環那が言った。
「ねぇ、周くん。今日は涼太くんと彩音ちゃんと、一緒に帰ろうよ」
俺は驚いて、環那の顔を見た。彼女はいつものように、キラキラした笑顔で俺を見ていた。
「どうしたんだ、急に」
「だって、周くん、涼太くんと彩音ちゃんの両片想い、応援してるんでしょ?」
「……っ」
俺は言葉に詰まった。彼女は、俺の気持ちを、いつの間にか見抜いていた。
「私が、涼太くんと彩音ちゃんをくっつけてあげるから、周くんも手伝ってよ!」
彼女はそう言って、俺の手に自分の手を重ねた。
俺の完璧な日常は、とっくに崩壊していた。しかし、その崩壊は、決して嫌なものではなかった。
俺は、彼女の無邪気な笑顔を見つめ、静かに頷いた。
「ああ。わかった。手伝ってやる」
その日から、俺の完璧な日常は、環那と、そして涼太と彩音という、三つの不協和音で満たされていく。
そして、俺は知る。この不協和音が、俺の人生を、より豊かで、幸せなものに変えてくれるのだということを。
俺の完璧な日常に、お前という名の不協和音。
それは、俺にとって、極上で、運命の不協和音だった。