秋の気配が、少しずつ街に降りてきた。
暑さがやわらぎ、風が少しだけ冷たく感じられるある朝。
葉月の携帯に、一本のメッセージが届いた。
「――本家に、会いに行こうと思う」
それは、直哉からだった。
(……本家)
あの日、彼が写真立ての話をしてくれたあとも、葉月は“片瀬家”について深くは聞いていなかった。
聞くことが、彼を苦しめてしまう気がして、踏み込めなかった。
でも今、彼の方から“向き合う”決意をしてくれた。
だから、葉月も迷わなかった。
「私も……一緒に行っていいですか?」
「もちろん。俺の“今”を知ってもらいたいから」
まっすぐにそう言ってくれた直哉の目に、嘘はなかった。
◇
片瀬本家は、都心から少し離れた静かな住宅街の一角にあった。
高い塀に囲まれた屋敷。
敷地内には、落ち着いた庭木と、格式を感じさせる和風の母屋。
「立派……ですね」
「ああ。住んでいたころは、何もかもが“ルール”で支配されていた」
そう言った直哉の横顔には、どこか覚悟がにじんでいた。
通された応接間で、ふたりは本家当主である“伯父”と対面した。
白髪交じりの、威厳のある男だった。
「久しいな、直哉。……その女性が、例の“婚約者”か?」
「はい。遠山葉月です。……今日は、大切な話があって伺いました」
伯父は葉月に一瞥をくれたあと、薄く笑った。
「“本物の結婚”を考えていると聞いたが。……あくまで君の“意志”か?」
「もちろんです。僕が自分の人生を、自分で決めたくて来ました」
「……君には、片瀬の名を守る義務がある。相手が誰であれ、“外”の人間を家に入れることは――」
「その“義務”に、僕の心は含まれていますか?」
静かに、しかし揺るがない声。
「僕は、家の名前のために生きてきました。大好きだった父や母と引き離され、名前を変え、人生も変えた。……でも、これ以上、“家”のために誰かを犠牲にしたくありません」
「直哉……」
「僕はもう、“義務”じゃなく、“想い”で人を選びたいんです。葉月といることで、僕は“自分自身”でいられる。彼女となら、家名に縛られずに生きられる。そう思えたから……今こうして、ここにいます」
伯父はしばらく沈黙したのち、ふっと笑った。
「……本当に変わったな。昔は“はい”としか言えなかった君が、こうもはっきりと反論するとは」
「変えてくれたのは……葉月です」
その言葉に、葉月の胸がじんと熱くなる。
伯父はしばらくふたりを見つめたあと、静かに頷いた。
「いいだろう。君の意志を尊重しよう。ただし、“片瀬”の名は、この家で預からせてもらう」
「……ありがとうございます」
「自分の足で立ち、自分の心で選んだ女性を守れ。それが、“片瀬”としての最後の務めだ」
その瞬間、直哉の肩から何か重たいものが、すっと下りたように見えた。
◇
帰りの電車。
窓の外に流れる風景を眺めながら、ふたりは並んで座っていた。
「緊張しました……けど、行ってよかったですね」
「うん。……“終わった”って思った。長い間、心の中にくすぶってた何かが、やっと」
「直哉さん……」
葉月はそっと、彼の手を握った。
その手は、少し震えていた。
「……俺、今すごく怖い。やっと“自由”になったのに、逆に……全部が手の中からこぼれ落ちそうで」
「私、いますよ。ずっと隣にいますから」
葉月の声が、まるでお守りのように直哉の胸に届いた。
「本当の家族になりたい。血とか名前じゃなくて、想いでつながる“家族”に」
その願いが、まっすぐで、愛おしい。
「……それ、プロポーズですか?」
「……そう取ってもらっていい」
電車の窓に映るふたりの姿が、ゆるやかに重なっていた。
恋人を超えて、家族になる。
“仮初め”から始まった関係が、いま、かけがえのない絆へと変わっていく――。



