仮初め婚約、やめました。~期間限定のはずが、本気で恋していいですか?~



 その日、葉月はいつもより少しだけ早く目を覚ました。

 窓から差し込む朝の光。
 肌に触れる柔らかなシーツ。
 そして隣に感じる、確かな体温――

 ぼんやりと瞼を開けると、隣で静かに寝息を立てている直哉の横顔が目に入った。

(……夢じゃ、ないんだ)

 昨夜交わした言葉も、重ねたぬくもりも。
 すべてが、“演技”ではなかった。

 自分の恋が、ようやく“本物”になった。
 それだけで、涙が出そうになる。

 直哉のまつげが、ふるりと揺れた。

「……起こしちゃいました?」

「いや、もう起きようと思ってた。……おはよう、葉月」

 名前を呼ばれるたび、胸が熱くなる。
 こんなにも穏やかな朝を迎えたのは、いつぶりだろう。

「……もう、契約は終わったんですよね」

「ああ」

「じゃあ……これからは、嘘じゃない、ちゃんとした“恋人”ですね」

 直哉が笑う。その手が、そっと彼女の頬に触れた。

「うん。……俺の恋人になってくれて、ありがとう」

 

 ◇

 

 それから数日後。
 葉月は社内の空気に、小さな変化を感じていた。

 ざわめきは確かにある。でも、以前のような“噂”ではなく――

「ねえねえ、あのふたり、やっぱり本当に付き合ってたんだよ」

「なんか、部長の顔つき変わったと思わない? 柔らかくなったっていうか……」

「確かに。遠山さんも、最近すごくきれいになったよね」

 変化の“空気”は、決して悪いものではなかった。
 もしかしたらそれは、直哉がきちんと“言葉”で説明してくれたからかもしれない。

 

「おい」

「……あ」

 ふいに背後から声をかけられて、葉月はびくりと肩をすくめた。
 振り返ると、直哉が冷たい顔で立っている。

 でも、それは“外の顔”。

「また、“部長”の顔になってる」

 思わず笑ってしまうと、直哉も苦笑して小声で言った。

「そりゃそうだろ。社内恋愛禁止のルールは、まだ撤廃されてないからな」

「でも……隠し続けるの、苦しいです」

「わかってる。だからこそ……ちゃんと筋は通すつもりだよ」

「……筋?」

「俺が異動願いを出す。来月には本社の管理職ポストが空くから、そっちへ行こうと思う」

「えっ……そんな、私のために……」

「俺が決めたことだ。君を“隠す存在”には、したくないから」

 その言葉に、思わず胸が詰まる。
 目の前の人は、本気で自分のことを考えてくれている。
 それを、どうやって信じないふりができるだろう。

「……私、今度はちゃんと“隣に立てる”ように、頑張りますね」

「もう充分、隣にいるよ」

 彼はそう言って、そっと彼女の髪を撫でた。

 

 ◇

 

 週末。葉月は、久しぶりに実家へ帰った。
 母親に“ある報告”をするために。

「……え?」

 食卓に並んだ湯気の向こう。
 母は、少しだけ驚いた表情を浮かべた。

「その人……以前言ってた、社内の“部長さん”? 婚約って、どういうこと……?」

「うん。最初は、正直……契約みたいな形だったの。でもね、ちゃんと向き合って、今は本当に……恋人になったの」

 言いながら、胸がじんわり温かくなる。

「私、彼と一緒にいると……自分の“名前”を大事に思えるの。ずっと“誰かの影”で生きてきた私に、名前を呼んでくれる人がいて……そのことが、すごく嬉しくて」

 母の目が、ふっとやわらいだ。

「……そう。あんたが、そう言うなら、きっといい人なんだろうね」

「うん。私、この人と一緒に生きたいと思ってる」

 はじめて“自分から”選んだ恋。
 はじめて“誰かの隣”に立ちたいと願った。

 

 恋が始まったのは、嘘の関係からだった。

 でも今、ふたりは同じ未来を見つめている。

 もう誰にも言い訳なんてしない。

 これは、本当の恋だから――