仮初め婚約、やめました。~期間限定のはずが、本気で恋していいですか?~



「……そろそろ、契約の終わりが見えてきたな」

 ある晩。ふたり並んで歩いた帰り道。
 直哉は、なんでもないことのようにそう言った。

(……契約の終わり)

 その言葉を聞いた瞬間、葉月の心が、ずしりと沈んだ。

(そうだ……私たちの“関係”には、期限がある)

 三ヶ月――。
 そのうちの、もう二ヶ月以上が過ぎようとしている。

 春の風はすっかり夏の匂いを含み、街路樹は青々とした葉を茂らせていた。
 時間は、確実に進んでいる。
 どれだけ甘い夢を見ていたとしても、それは“終わりのある嘘”だという現実からは逃れられない。

「……そうですね。契約、ちゃんと履行できてよかったです」

 できる限り、平静を装って返した。
 でも、声が少しだけ震えていたのを、自分でもわかっていた。

 直哉は、そんな葉月を横目に見て、そっと足を止めた。

「……遠山さん、最近“俺のこと”避けてる?」

「……そんなこと、ないです」

「本当に?」

 低く、静かな声。
 どこか責めるでもなく、ただその真意を知ろうとするような問いかけだった。

 けれど、葉月は答えられなかった。

(“演技”じゃなくなってしまったから……苦しいの)

(私、あなたのことを……本当に好きになってしまった)

 でも――それは、言ってはいけないことだった。
 この関係は“契約”だ。期限つきの約束であり、恋愛ではない。

 きっと、直哉にとっては、過去を整理するための“手段”でしかなかったはずなのだ。

「私……本当は、最初から自信なかったんです」

 ようやく絞り出した言葉は、それだった。

「周りからどう見られるかも、部長にふさわしくないって思われるのも、ずっと怖かった。でも……それ以上に、直哉さんが優しくしてくれるたびに……」

「……葉月」

「“終わりがある”ってわかってるのに、どんどん、惹かれてしまって……」

 もう、それ以上は言えなかった。

 そのとき――直哉が、突然葉月の手を取った。

 強くもなく、でも決して離れない強さで、彼女の手を包み込む。

「俺も、怖かったんだよ」

「……え?」

「自分の気持ちが変わっていくのが。君を“利用した”はずだったのに、気づいたら……君を守りたいって思ってた」

 葉月の胸が、激しく波打つ。

「契約の終わりが近づいて、心が追いつかなくなって……君に触れるのが、怖くなった。もし気持ちがバレて壊れたらって思ったら、動けなくなった」

「……バレて、も?」

「――俺も、君に惹かれてたよ」

 静かに、けれど確かに告げられた言葉に、葉月の視界が揺れた。

「初めてだよ。誰かに“名前”で呼ばれるたび、心が落ち着くなんて」

「私も……直哉さんの名前を呼ぶときだけ、自分が“誰か”でいられる気がしてた」

 ふたりの言葉が、ようやく交わったその瞬間。

 夕暮れの空が、すっと暗くなり、街灯が灯り始める。
 通りすがる人々のざわめきも、夜風の音も、遠ざかっていくようだった。

 この世界に、ふたりしかいないみたいだった。

「契約なんて関係なく……俺は、君の手を離したくない」

「……それって」

「“本当の”恋人になりたいって、言ったら……ダメかな?」

 その言葉に、もう涙をこらえることはできなかった。

 声にならないまま、葉月は首を横に振る。

 そして、次の瞬間、そっと頷いた。

 

 ――“契約”は、期限付きだった。

 でも、“恋”は、期限なんて超えてしまう。

 

 ふたりはもう、ただの“仮初めの関係”ではいられなくなっていた。