「今日は……家に来ないか?」

 金曜日の夜。
 仕事を終えて帰ろうとしていた葉月に、直哉はぽつりとそう言った。

「えっ……でも、もう約束の“契約”は……」

「いいから。来て」

 そう言って微笑んだ彼の表情は、いつもよりほんの少し、疲れて見えた。
 それが気になって──葉月は、頷くしかなかった。

 

 片瀬直哉のマンションは、会社からほど近い高層ビルの一室。
 シンプルなのに洗練された空間で、部屋の隅々まで清潔に整っていた。

「どうぞ。コーヒーしかないけど」

「ありがとうございます……すごく、落ち着く部屋ですね」

「俺が“私生活に興味なさそう”って思ってた?」

「少しだけ」

 葉月が笑うと、直哉も小さく口元を緩めた。
 けれどそのあと、彼は急に黙り込んでしまった。

「……少しだけ、休ませてくれないか。リビングで横になる」

「わかりました。お疲れだったんですね」

 彼が目を閉じたあと、葉月はそっとキッチンでコップを洗っていた。
 寝顔に見惚れることを避けるように、静かに時間をやり過ごす。

 ふと──視界の隅に、リビングの本棚の隙間から顔を覗かせた“写真立て”が目に入った。

(……あれ?)

 なぜか、裏返しになっている。
 好奇心が理性を押しのけ、葉月はつい手を伸ばしてしまった。

 そっとフレームを起こすと、そこには──

「……これ……」

 柔らかく笑う、若い男女の写真。
 そして、その中心に──直哉がいた。

 けれど──今とは違う表情だった。

 口角が大きく上がり、心の底から誰かと笑い合っている。
 その笑顔を、葉月は見たことがなかった。

 その直後──背後から、低く静かな声が降ってきた。

「見たのか」

「……ごめんなさい、つい……」

 思わず謝った葉月に、直哉は小さく首を振った。

「いいよ。見られたくなかったけど……責めるつもりはない」

「この人たちは……ご家族、ですか?」

「うん。……昔の、家族。俺が“片瀬の家”に引き取られる前の、家族だ」

「……え?」

 言葉の意味がすぐには理解できなかった。

 直哉は、ソファに腰を落とし、ゆっくりと話し始めた。

「俺はもともと、普通の家庭で育った。父も母も、ただのサラリーマンだったんだ。でも、あるとき──実父が“片瀬の血を引く人間”だってわかって」

「……!」

「片瀬家は“家”を守ることを最優先にしてる。だから、“血筋”のある俺を本家に引き取るって決めたんだ。……小学四年のときだった」

 感情を抑えた口調の奥に、深い喪失感があった。

「両親は反対した。でも、俺には選択権はなかった。母親は泣いてた。けど……片瀬の姓をもらって以降、二度と連絡をとれなかった」

 葉月の胸が、ぎゅっと締めつけられる。

「……それが、片瀬さんの“秘密”だったんですね」

「秘密ってほどじゃない。……ただ、話してどうなることでもないから、ずっと言わなかっただけだ」

 そして、葉月の方を見た。

「君には、なぜか……話せると思ったんだ」

「……」

「君が俺の名前を呼ぶたびに、昔の“俺”に戻れる気がした。直哉って、名前を使える自分を思い出せるから」

 それは、仮初めの関係に紛れていた、本物の想いだった。

 ただ演じているだけじゃない。
 ただ“便利な相手”として選ばれたのでもない。

(彼は……本当に、自分の気持ちを……)

 涙がにじんだ。
 抑えようとしても、込み上げてくる感情が、胸の奥であふれ出しそうだった。

「……名前、呼んでもいいですか」

 震える声でそう言うと、直哉は静かに頷いた。

「……直哉さん」

 たったそれだけの言葉が、ふたりの心をつなぐ。

 彼がゆっくりと近づいて、そっと葉月の手を取った。

「……ありがとう」

「私のほうこそ……信じてくれて、ありがとうございます」

 そのとき、演技でも仮初めでもない、確かなぬくもりが指先に伝わっていた。

 

 ──“秘密”に触れたとき、恋が本当になる。

 葉月は、もう戻れないところまで来ていた。
 直哉の“本当の名前”を、心から愛し始めていた。