仮初め婚約、やめました。~期間限定のはずが、本気で恋していいですか?~


 
いつものように始まったはずの月曜の朝。

 けれど葉月は、これまでにないほど慎重に鏡をのぞき込んでいた。
 ほんの少しだけ、前髪の分け目を変えてみる。
 リップもいつもより少し明るめ。だけど目立たない程度に。

(……何してるんだろう、私)

 心の中で自嘲するように笑った。
 “恋人を演じる”ために、そうしているだけだと言い聞かせながら。

(でも……彼に見られて恥ずかしくないようにしたいって、思ってしまうのはなぜ?)

 

 出社すると、予想通り視線が集まった。
 けれど先週より少しだけ、好奇の色は薄れていた。
 人は慣れる。話題は移ろう。
 “部長の婚約者”というポジションが定着しつつあるのを、葉月は複雑な気持ちで受け止めていた。

「おはようございます、……直哉さん」

 人目を避けるように、低い声でそう呼んだときだった。

 彼は一瞬、手を止めて顔を上げ──その瞳に、かすかな翳りを見せた。

(……あれ?)

「……おはよう」

 優しい笑み。けれど、どこかほんの少し、いつもより距離を感じた。
 言葉にできない違和感が、胸の奥に小さな棘を残す。

(……なんで、“直哉さん”って呼んだときだけ、胸が痛いんだろう)

 

 昼休み。
 彼は葉月の席まで来て、当然のように言った。

「今日も、ランチ一緒にいいか?」

「……ええ。よければ」

 同僚の視線が刺さるけれど、それはもう避けられない。
 自然なふりをしながらエレベーターに乗り込むと、彼はボタンを押しながら言った。

「昨日のこと……疲れてないか?」

「いえ、大丈夫です。緊張はしましたけど……貴重な経験でした」

「……あの人たちは、誰に対してもあんな感じだ。気にしなくていい」

 ふと、彼の言葉にふわりと切なさが滲む。
 それが“家族”を語る口調とは思えなくて、葉月は思わず尋ねた。

「片瀬さん……いえ、直哉さん。ご家族とは、あまり……うまくいってないんですか?」

「……」

 その名前を呼んだ瞬間、また──彼の瞳にわずかな痛みが走った。
 けれど今度は、彼の方から答えが返ってくる。

「……俺の名前を、そうやって呼んでくれるのは、君だけだよ」

「……え?」

「家族は、昔から俺のことを“片瀬”って呼ぶ。愛称なんてなかった。俺は“家の後継者”だったから」

 穏やかな語り口なのに、その裏にある孤独は、はっきり伝わってくる。

「俺はね、名前で呼ばれることに慣れてないんだ。だから……少しだけ、戸惑う」

「ごめんなさい……」

「いや、謝ることじゃない。むしろ……嬉しいんだ。誰かに“直哉”って呼ばれるのは」

 そう言って微笑んだ彼は、ほんの少しだけ、照れているようにも見えた。

 胸が、また痛んだ。

(……演技のはずなのに。なんで、こんなふうに苦しくなるんだろう)

 

 ランチのあと、社に戻る途中。

 ふと、彼が立ち止まって、振り返った。

「なあ、葉月」

「……はい?」

 名前を呼ばれて、なぜかドキッとする。
 まるで、初めて“女性”として見られたような気がして。

「演技だって、わかってるけど──君の前だと、俺は変になりそうだ」

「……え?」

「仕事中、ふと君のことを見たくなる。声を聞きたくなる。触れたくなる」

 その言葉が、心に真っ直ぐ入り込んできて、葉月は息をのんだ。

「それは……“演技”の延長、なんですか?」

 彼は答えなかった。
 代わりに、そっと葉月の頬に触れる。

 指先は熱を帯びていて、けれど優しくて──涙が出そうになるほど、あたたかかった。

「演技だったら、こんなに戸惑わない」

 静かに告げられた言葉。
 その意味を、葉月はすぐには飲み込めなかった。

 でも、心の奥がざわめく。

 仮初めの関係のはずだった。
 でも、もうどちらからも“嘘”の境界線が、薄れていってる。

 

 帰り道、ひとりになったエレベーターの中。
 葉月は小さくつぶやいた。

「……直哉さん」

 彼の名前を、声に出してみる。
 そのたびに、胸が温かくなるのに、なぜか少し痛くなる。

(この名前に、私は……惹かれてしまっているのかもしれない)

 

 ──名前を呼ぶたび、心が揺れる。
 それは、恋が始まる音に似ていた。