東京から少し離れた、閑静な住宅街。
 その一角にそびえる和洋折衷の邸宅を、葉月はただ黙って見上げていた。

 ──ここが、片瀬家。

 玄関までの道を歩くだけで、靴の音がやけに大きく響く。
 古びた門構えには手入れの行き届いた蔦が絡み、庭の石畳さえも美しく整えられていた。

「……緊張してる?」

 隣で歩く直哉が、小さく問いかけた。

 普段と同じ、低く静かな声なのに──今日の彼はどこか違って見える。
 茶色のノーカラージャケットにベージュのパンツ。カジュアルだけど上品で、街中ではきっと目を引くだろう。
 けれど葉月は、その“完璧な装い”よりも、彼の横顔に潜む無表情さに気づいていた。

(……さっきから、笑ってない)

「少しだけ、緊張してます。こんな立派な家、初めて見たので……」

「必要なのは演技力だけ。堂々としていてくれれば、それでいい」

 それだけを言うと、彼は来客用のインターホンを押した。
 応対に出た年配の女性に名前を告げると、すぐに門が開く。

「“家族には紹介する必要がある”っていうのが、建前だから」

「……本当は、紹介したくなかったんですか?」

「……あまり、好きな空気じゃない」

 そう言った彼の声は、どこか乾いていた。

 

 応接室に通された葉月は、背筋を伸ばして座っていた。
 重厚なソファの座面に緊張しながらも、礼儀正しく、しかし“自然に見えるように”。

(私はいま、婚約者を“演じてる”)

 そう自分に言い聞かせながら、部屋を見渡した。
 古い掛け軸と、壁に飾られた洋画。対照的な文化が奇妙に融合した室内。

 やがて、足音とともに姿を見せたのは──

「お久しぶりですね、直哉くん。そして……」

 艶のある声に導かれるように、女性が現れた。
 着物を上品に着こなした彼女は、凛とした佇まいで二人を見つめる。

「彼女が、例の……?」

「はい。遠山葉月です。初めまして」

「まあ、綺麗な子ね。少し華奢だけど……直哉くんに似合ってるわ」

 微笑みながらも、その視線は鋭く、まるで値踏みするようだった。

(この人が、片瀬さんの……?)

「祖母だよ。片瀬家の当主みたいなものだ」

 横で囁かれた彼の声には、わずかに緊張が滲んでいた。
 冷静な彼が、こうして声を曇らせる相手は、他に見たことがない。

 そして、会話のなかでふいに語られた事実が、葉月を内側から揺らした。

「……でも、急だったのね。まさか、見合い話を断ってまで“自分で相手を選んだ”なんて」

「見合い、ですか……?」

「ええ。直哉にはね、旧知の家柄の娘さんとの縁談があったのよ。先方は財界でも有力な家。けれど……急に“好きな人ができた”と言い出して」

「……っ……」

 (私のせいで……?)

 知らなかった。
 彼がこの“婚約ごっこ”の裏で、何かから逃げようとしていたことを。

 彼が自分を選んだ理由は“偶然”だと聞いた。
 でも──本当は、他の誰かじゃダメだったのかもしれない。

(何かを、隠してる)

 その瞬間、直哉がそっと手を伸ばしてきた。
 膝の上で緊張に凍りついた葉月の手を、そっと重ねるように握った。

(……この手は、演技?)

 けれどそのぬくもりは、あまりにも優しくて、震える指先を静かに包んでくれる。

「……葉月は、俺にとって大切な人です。誰がなんと言っても、俺の選んだ相手ですから」

「……」

 言葉ではなく、心臓の音が答えを出していた。
 その一言が、どれほどの意味を持つのか、演技だとわかっているのに──涙がにじみそうになる。

 “私なんかが”と、思っていた。
 でも彼は、そんな葉月の存在を“堂々と選ぶ”と言った。

(……この人は、たぶん私よりずっと大きな何かを抱えてる)

(それでも、私のことを“守る”って……)

 その夜、帰りの車の中で、葉月は意を決して口を開いた。

「……今日、ありがとうございました。ちゃんと“演技”できていたでしょうか」

 助手席の窓の外に、夜の街の明かりが流れていく。
 静寂の中、しばらくの間、返事はなかった。

 やがて──

「演技にしては……ずいぶん自然だった」

「えっ……?」

「手を握ったとき、君が俺のことを“信じてくれた”気がしたから」

「……」

 それは、まるで“演技”ではなく、
 本当に“心”をつないだかのような言い方だった。

「……私も、あのときだけは……うそじゃないって思いました」

 口にしてしまった言葉を、すぐに後悔した。
 けれど、直哉はふっと笑った。

「じゃあ……五分五分だな。うそ半分、本当半分」

「……そんなの、ずるいです」

 それでも、胸の奥に灯ったものを、もう見なかったふりはできなかった。

 

 ──秘密を抱える二人の、仮初の関係。
 でも、確かに心が触れ合った一瞬があった。

 そしてその裏で、まだ葉月は知らない“片瀬家のもうひとつの顔”が、静かに姿を見せようとしていた。