出社したその日、社内の空気がいつもよりざわついていた。

「えっ、営業本部の部長が……? あの、片瀬さんが?」

「見た? 今朝、一緒に車から降りてきた女の人。すっごく綺麗って感じでもないけど……親しそうだったって」

「まさか彼女? でも片瀬部長って、社内恋愛なんて一切しないって有名だったじゃん!」

 コーヒーサーバーの横。コピー室の奥。
 あちこちで囁かれる“噂”に、葉月は息苦しさを覚えながら、給湯室の片隅でカップを抱えていた。

(……これが“演じる”ってことなの?)

 誰かの好奇心が、自分に向けられる感覚。
 目立たないことが自分のポジションだと信じて疑わなかった今まで。
 それがたった一日で覆った。

 そして一番困っているのは──本人、つまり片瀬直哉その人のはずだ。

(社内での立場もあるだろうに、どうしてあんな提案を……)

「……大丈夫?」

「っ……!」

 背後からかけられた低い声に、葉月は反射的に肩を跳ねさせた。
 振り向くと、すぐそこに立っていたのは、件の“婚約者”役・片瀬だった。

「驚かせた。ごめん」

「い、いえ……」

 落ち着いたスーツ姿。ネクタイの結び目すら完璧な、隙のない彼。
 でもその瞳は、どこか真っ直ぐすぎて、視線を逸らしたくなる。

「君に火の粉が降りかかるのは本意じゃない。社内で変な噂が出たら、俺が全部説明する」

「……それって、“演技”の話を、堂々とするってことですか?」

「違う。……俺が言うのは、“彼女と真剣に交際している”という事実だ」

「それも……演技、ですよね?」

「……」

 小さな声で問いかけたのは、自分でも意識せず口をついた言葉だった。
 けれど、彼は一拍の沈黙のあと、こう答えた。

「……演技でも、君を守るって決めたのは俺の意思だよ」

 その言葉が、胸の奥を静かに揺らす。
 嘘の関係のはずなのに、本気の眼差しでそう言う彼がずるいと思った。

(優しさまで、演技だなんて思いたくない)

 

 昼休み。社食に行こうとデスクを離れようとした瞬間、彼の声が飛んできた。

「遠山さん、これ」

「え……?」

 差し出されたのは、小さな保冷バッグ。
 開けてみると、手作りのサラダボウルと、ラップに包まれたライ麦パンのサンドイッチ。

「昼休み、混むだろ? 俺、昨日の夜少し多めに作ったから」

「ま、まさかこれ……部長が?」

「直哉、って呼ぶんじゃなかったか?」

「っ……な、直哉さんが?」

 うなずく彼は、当然のようにコーヒーまで淹れていた。
 普段、社内では近寄りがたいオーラを放っているくせに。
 その手元の動きはどこまでも自然で、思わず目を奪われてしまう。

「家事くらいできる。ひとり暮らし、長いから」

「……優しいんですね」

 ぽつりとつぶやいた言葉に、彼は少しだけ目を伏せた。

「優しさっていうより……君が無理してないか、気になっただけだよ」

「……そうですか」

(それでも、私は……嬉しいって思ってる)

 嬉しいなんて感情を、こんなに素直に感じたのは久しぶりだった。
 けれどそれは、恋愛感情なんかじゃない。
 ――そう思いたかった。

 たとえ、この優しさが“演技”の一環でも。
 誰かのために尽くす気持ちを忘れたくなかったから。

 

 そして、午後の勤務が終わる頃。

 片瀬がふいに、葉月のデスクに立ち寄った。

「今日、帰り……寄ってほしいところがあるんだけど」

「え?」

「“婚約者”として、一度は顔を出さなきゃいけない場所だ。外部にはバレてないが、いわば親族の会合で……」

「……っ」

 まさか、そんな“演出”まであるなんて。

 けれど、彼の眼差しは迷いなく、まっすぐだった。
 この人はきっと、自分が思っている以上に本気で、何かを守ろうとしている。

 その理由は、まだわからない。

 けれど──

(この人の“優しさ”は、どこまでが嘘で、どこからが本当なんだろう)

 そんなことを考えてしまう自分が、もうすでにこの関係に心を引き寄せられている証拠のような気がして、葉月は少しだけ胸が痛くなった。