朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでくる。
 カーテンを締め切ったまま眠るのがいつもの習慣だったはずなのに、今日はなぜか少しだけ開けて眠っていたらしい。
 薄く光るレース越しに、街の気配がほんのりと伝わってくる。

 遠山葉月は、ぼんやりとした頭のまま、天井を見つめていた。

 昨日の夜、自分の意志で“サイン”をした契約書。
 契約婚約者として、片瀬直哉の婚約者を演じる三ヶ月。

 目が覚めた今でも、どこか現実味が薄い。

(……どうして、受けたんだろう)

 そう自分に問いかけても、答えは出ない。
 ただ、あのとき確かに感じた。
「必要とされるふり」でいいから、誰かの特別になってみたいと。
 ずっと日陰で、自分の価値なんて誰にもわからないまま働いてきた。
 それが当たり前だと、思ってきたのに。

(……違ったんだ、私、少しでも“誰かの役に立ってる”って思いたかったんだ)

 だから。
 心を押し殺して、契約書にサインした。

 冷静に思えば、身分も地位も、すべてが釣り合わない人との仮初の関係。
 けれど、いまさら後悔しても遅い。

 

 玄関のチャイムが鳴ったのは、その時だった。

「遠山さん。予定通り、迎えに来たよ」

 ドアの向こうから、低く落ち着いた声が響いた。

「……部長、じゃなくて……片瀬さん?」

 スーツに身を包み、端正な顔立ちに影ひとつない笑顔。
 それは、社内で見せる“部長”の仮面とはまた違う、少しだけ親しみを込めた表情だった。

「会社には一緒に行く。今後は“そういうふうに見られる”必要があるから」

「……わかってます。でも、その、なんというか……昨日から急すぎて、まだ頭が追いついていなくて」

「大丈夫。すぐ慣れる」

 彼はそう言って、すっと腕を差し出す。
 その手のひらが、あまりにも自然で、葉月は反射的に戸惑った。

(なに、この距離感……“恋人”みたい)

 けれど──そうだった。恋人のふりをする関係。
 他人に“そう見せる”ための演技。

(そうよ、これは全部“演技”)

 そう自分に言い聞かせ、葉月はおそるおそる、その腕に軽く触れるように手を添えた。

 

 マンションを出ると、エントランス前には黒の外車が停まっていた。
 想像よりもずっと高級そうで、思わず葉月は足を止める。

「……これ、もしかして片瀬さんの車ですか?」

「うん。会社には黙ってるけど、車くらいはね」

 助手席のドアを開けてくれるその仕草も、どこか慣れていて──
 庶民育ちの葉月にとっては、どれもが眩しく映った。

(本当に……違う世界の人だ)

 でも、そんな彼が。
 昨日のような申し出をして、今こうして、隣にいる。

「なあ、遠山さん。ひとつだけ約束してほしいことがあるんだ」

 助手席に乗り込んだ直後、彼がぽつりと口にした。

「……はい」

「俺のことは、これからは“直哉さん”って呼んでほしい。外では特に」

「……え、でも、それは……」

「婚約者なんだから、“片瀬部長”って呼ばれてたら変だろう?」

 たしかに、そうかもしれない。
 でも──社内で呼び慣れた肩書きを手放すことに、葉月は強い戸惑いを感じた。

(呼び捨てにするだけで、こんなに距離が縮まるように感じるなんて)

 彼の名前を口にする。それだけで、なぜこんなに心がざわつくのだろう。

「……なおや、さん……」

 小さく口にすると、彼が思わず表情を緩めた。

「……悪くないな、その声」

「えっ……?」

「呼び方が。なんだか新鮮だったから」

 冗談なのか、本心なのか。
 その言葉の真意はわからなかった。けれど、ほんの少し、鼓動が速くなる。

 

 朝の通勤ラッシュのなか、彼の隣で車に揺られながら、葉月は密かに思っていた。

(秘密を抱えてるのは……この人だけじゃないかもしれない)

 自分だって、母の借金のことも、前の恋愛のことも、誰にも言っていない。
 秘密を持った者同士。
 そんな関係が、嘘の“婚約”を通じて、少しずつ確かなものになっていく気がしていた。

 ──これは演技。
 だけど、心が揺れるのは、止められない。

 彼の横顔をそっと盗み見た瞬間、気づかれたのか、ふいに視線が重なった。

「……なに?」

「……いえ、なんでもないです」

 そう言って目をそらしたのに。
 彼はそれ以上なにも言わず、けれど、わずかに口元だけを緩めていた。

 

 まるで、秘密を共有する“共犯者”のように。
 ふたりの距離は、今日、確かに一歩だけ近づいた。