初秋の風が、街をやわらかく包み込むように吹いていた。
その日、葉月は少し早起きして、鏡の前に立っていた。
白のワンピースに、ベージュのジャケット。
髪はいつもより少しだけ巻いて、口元には淡いピンクのグロス。
――いつもの自分より、少しだけ背伸びした“わたし”。
「……緊張してるの?」
直哉が、後ろからそっと声をかけてきた。
「ううん。大丈夫。……たぶん」
言いながら、自分でも気づいていた。
心臓の鼓動が、さっきからずっと落ち着かない。
今日は、“両家顔合わせ”だった。
もう“契約”なんて言葉はない。
ただ“本気”で、この人と人生を共にすると決めたその延長線。
(それでも……やっぱり怖い)
家族になるということ。
“私”という存在を、彼の家族に見せること。
彼の“人生”に踏み込むこと――
だけど、その不安すら、彼の笑顔がかき消してくれる。
「俺、何も飾る気ないよ。遠山葉月って人が、俺の選んだ“たったひとり”だってこと。それが、すべてだから」
「……ありがとう」
直哉が“片瀬”の名前を手放してまで選んでくれたのは、
地位でも外見でもなく、「私」という一人の人間だった。
だから、もう迷わない。
この人の隣に、ちゃんと立てる自分でいたい。
◇
顔合わせは、思っていたよりずっと和やかだった。
葉月の両親は少し緊張していたけれど、直哉が丁寧に言葉を選び、
穏やかに時間は流れていった。
「……ご両親に、ちゃんと挨拶したの、初めてだ」
その帰り道。
夕暮れの風が肌に心地よく、直哉がふっと笑う。
「俺、これまで“名前”ばかり気にして生きてきた。名刺に書かれた肩書とか、親戚の評判とか……でも、今は違う」
「うん?」
「俺が名乗りたいのは、“葉月の夫です”ってことだけだなって」
その言葉に、思わず涙がこぼれた。
「……私も、“直哉さんの妻です”って言える自分でいたい。名乗れるように、自信をもって歩いていきたい」
「充分だよ。……最初は“仮の婚約者”だったのに、こんなに愛してしまうとは思わなかった」
「私も……“嘘から始まった”恋なのに、こんなに本気になってしまうなんて」
ふたりは同時に微笑んだ。
歩幅が、自然と合っている。
手のぬくもりも、もう不安をかき消すだけのものじゃなくて、
これから一緒に“未来を築く”ための、大切な約束のようだった。
◇
数ヶ月後。
桜が咲くころ、ふたりは小さな結婚式を挙げた。
ゲストはごく親しい人たちだけ。
誓いの言葉も、形式ばったものではなく、自分の言葉で伝え合った。
「直哉さん。私は、あなたの過去も、秘密も、全部含めて“愛しい”と思えるようになりました」
「葉月。俺は、君の笑顔と涙の全部を知ったうえで……これから先の人生も、君と共に歩いていきたい」
その日、空は雲ひとつない快晴だった。
最初は、嘘から始まった。
でも、嘘の中に、ほんの少しだけ“本音”が混ざっていた。
触れ合うたびに増えていった、本当の想い。
やがて、それは名前を超えて、家を超えて、
“家族”という絆に変わっていった。
彼の隣にいる私は、もう“誰かの代わり”じゃない。
そして彼にとっても、私はただの“仮初め”なんかじゃない。
――いま、私たちは心で結ばれている。
それは、誰にも壊せない絆。
これからは毎日が、本物の“恋”の続きだ。
終わりは、いつだって新しい始まりになる。
だから、何度だって――恋をしていい。
何度だって――愛を確かめていい。
これは、ひとつの恋の終わりであり、ふたりの未来の始まりの物語。
fin.



