経理部へ異動になって、まだ三日目。

 初夏の朝、遠山葉月(とうやま・はづき)は、緊張で張りつめた背筋を無理やり真っすぐに伸ばした。
 キャビネットの引き出しに電卓をしまったその瞬間、内線電話の着信音が鳴る。発信先のディスプレイには、【営業本部 部長室】と表示されていた。

(え……私、何かミスした?)

 喉の奥がきゅっと締まるような不安を覚えながら、葉月は内線に出た。

『……遠山さん? 今、時間ある?』

 低く落ち着いた声が、耳に心地よく響いた。けれど、その相手の名前を思い出したとき、葉月の心臓が跳ねる。

 片瀬直哉(かたせ・なおや)さん。
 営業本部の部長にして、今回葉月が異動してきた経理部の直属の上司。

 涼しげな目元に、整った横顔。白シャツを着ただけでも雑誌の表紙になりそうな美貌の持ち主だが、社内では冷徹で有名な人。
 話したことは、ほとんどない。

「は、はい。……今から伺います」

 返事をし、受話器を置いた。
 社内にいながら「部長室」へ呼ばれるなんて、重苦しい響きがある。

(異動して早々、怒られるようなこと……したかな?)

 小さく息を吐いて、スーツの裾を整える。ヒールの音を響かせながら歩いた先、営業本部の一角──重厚な扉の向こうに、彼はいた。

 

「……失礼します。遠山です」

「来てくれてありがとう。座って」

 片瀬は立ち上がることもせず、書類に目を通したまま短く言った。
 でもその声は、思っていたよりも柔らかかった。

「今日、呼んだのは他でもない。遠山さんに、ちょっと変わった“お願い”をしたいと思って」

「お願い……ですか?」

「……これに、サインしてもらえるかな」

 そう言って差し出されたのは、一枚の紙。
 紙質の良さに、一瞬たじろぐ。けれど、書かれていたタイトルを見て、息が詰まった。

 ――《婚約契約書》

「……これ、何ですか?」

「そのままの意味だよ。俺の“婚約者のふり”をしてほしい」

「……は?」

 何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
 まっすぐにこちらを見つめる片瀬の目は、冗談を言っているとは思えないほど、真剣だった。

「期間は三ヶ月。君に危害が及ぶようなことは何もさせない。ただ、俺の……家庭の事情で、“婚約者がいる”という事実を作る必要があってね」

「そ、そんな理由で……なぜ私なんですか」

「正直に言うと、君を選んだのは偶然だ。君が独身で、社内で目立たないポジションにいて、情報が外に漏れにくい。……そして、変に俺に気があるようなそぶりを見せないところも、都合がよかった」

「……」

 ぐさり、と胸に刺さる言葉を、彼はあまりにも冷静に言った。

 普通なら、即座に断るような話だった。

 けれど葉月は、契約書の下に記された一文に目を奪われた。

《報酬:月額三十万円》

(……生活費の足しになる……)

 彼女は、母親の借金を密かに返済している。
 毎月、給与の三分の一が返済に消えていく現実。そんな中での、この“契約”は──

「……考える時間を、いただけますか?」

「もちろん」

 その瞬間、片瀬の目が一瞬、やわらかく揺れたように見えた。

 

 ──その夜。

 部屋に戻った葉月は、何度も契約書を見直しながら、心を揺らしていた。
 常識的に考えれば、受けるべきではない。
 でも、“叶わない恋”をして失恋したあの日から、もう誰かを好きになることを諦めていた葉月には、心を揺さぶられるほどの何かが、彼の言葉にはあった。

(どうせ、偽りなんだし)

(……誰かに必要とされるふりを、してみてもいいかな)

 小さく息を吐いて、葉月はペンを取った。

 そして、“婚約者”になる契約書に、名前を書いた。