最終章:迷惑なんて言葉、最初からいらなかった
――春。
冬の名残を少しだけ引きずった、柔らかな陽の光が差し込む朝。
「行ってきます」
神谷さんの声が、キッチンに響く。
「行ってらっしゃい」
私は窓際のテーブルから笑って手を振った。
今は二人で同棲中。車椅子に乗ったまま移動出来るバリアフリーの部屋を借りた。
不安だったけど、もう“日常”のひとつになっていた。
「朝ごはん、ちゃんと食べた?」
「はい、先生」
「コーヒー飲みすぎないでね。胃、弱いんだから」
「……はい、先生」
「もう。人の言うことぜんぜん聞かないんだから」
神谷さんは靴を履きかけたところで、ふっと笑った。
「でも、その小言、けっこう好き」
「……なにそれ」
「なんか、家庭って感じするからさ」
私も思わず笑ってしまう。
――そう、これが今の“私たち”の形。
あれから、いろんなことがあった。
咲良さんは別の会社に転職し、今は新しい場所で新しい自分を探している。
少し前にメールをくれて、【私も“迷惑かけられる人”になりたい】って書いてあった。
彼女なら、きっともう大丈夫だと思う。
私は、在宅でデザインの仕事をしている。
誰かの笑顔のきっかけになるものを作りたい――そう思えるようになったのは、あのとき、神谷さんが“私の笑顔が救いになる”って言ってくれたから。
それは今でも変わらない、私の根っこにある願い。
そして――
ある日の午後。
神谷さんが急に早退してきたと思ったら、ケーキと花束を抱えてやってきた。
「なにこれ?」
「……ちょっと早いけど、付き合って一年記念日。覚えてた?」
「……うん、まぁ」
「じゃあ、俺からもうひとつ」
彼がスッと差し出したのは、小さな白い箱。
開けると、そこには細いリングが入っていた。
決して派手ではないけれど、やわらかに光る、小さな約束の印。
「栞里。俺と結婚してください」
その一言で、胸の奥が熱くなった。
「……ほんとに、私でいいの?」
「うん。俺には栞里じゃなきゃダメなんだ」
「迷惑かけるよ?」
「かけて。ずっと、かけて」
「……きっと、これから困ること出てくる。どうしようもならないことあるかもしれない」
「それでもいい。二人で乗り越えれば良い。それにきっと俺も困らせるから」
そのやりとりのすべてが、
あたたかくて、あたりまえで、まっすぐだった。
「……はい。私、神谷さんと一緒にいたい。よろしくお願いします」
そう答えた私に、彼はまるで初めて笑うみたいに、優しい目をした。
あの頃の私は、“迷惑”をかけることが怖かった。
できない自分を見せること、弱い自分を認めることが、恥ずかしくて苦しくて。
でも今は、違う。
迷惑をかけ合えるから、人は支え合える。
誰かの手を借りてもいい。誰かのために涙してもいい。
そうやって、生きていく。
私はこれからも、たくさん迷惑をかけるだろう。
でも、それでいいと思える。
だって私は――
「迷惑かけても、いいですか?」って、もう聞かない。
ただ、“一緒にいてね”って、あなたに言えるから。
― Fin ―



