第三章:君の“弱さ”が、好きなんだ

 

 朝のオフィスは、静かで少し肌寒い。
 いつもと変わらない朝。けれど私は、昨日と少し違う気持ちで、デスクに向かっていた。

 神谷さんとあんな話をして、私は何かが変わりはじめていた。
 他人の視線に怯えていた自分に、優しい手を差し伸べてくれる人がいる。
 「味方でいる」と言ってくれる人が、目の前にいる。

 その事実が、心のどこかにあたたかい灯をともしていた。

 

 ふと顔を上げると、神谷さんが廊下からこちらを見ていた。

 私と目が合うと、軽く片手を挙げて笑う。
 その笑顔に、胸がぎゅっとなった。
 誰かの笑顔って、こんなにも心を救ってくれるものなんだ。

 

 けれど。

「……へえ。やっぱり“特別扱い”なんだ」

 背後から冷たい声がした。

「神谷さんって、面倒見いいもんね。そういう“弱い子”が好きなんでしょ」

 振り返ると、同じ部署の同期、咲良(さくら)がこちらを見ていた。

 笑っていたけれど、瞳は冷たかった。

「……私、ただ迷惑かけないように、って――」

「ううん、わかってる。でもね、世の中って、“かわいそう”な人の方が得なんだよ」

 言葉が、鋭く胸に刺さった。

 “かわいそう”――
 それは、私がいちばん言われたくなかった言葉。

 

 何も言えないまま俯いた私に、咲良はさらに重ねる。

「私は、誰にも頼らずやってきたけどな……あんたはそうやって、人の優しさを独り占めしてればいいよ」

 

 苦しかった。
 せっかく昨日、少しだけ顔を上げられたのに――
 また私は、誰かに迷惑をかけているんだろうか。

 

 そのときだった。

「……ちょっといいか?」

 低く落ち着いた声が、私の背後から聞こえた。

 振り向くと、神谷さんが立っていた。

「……神谷さん?」

「咲良。お前、今なに言った?」

「……別に。事実でしょ」

「事実じゃねえ。……お前、なにも分かってない」

 

 その瞬間、神谷さんの顔がほんの少しだけ怒りを帯びた。

「“誰にも頼らずやってきた”ってのが偉いとでも思ってるのか? それって、誰にも本音を言えずに、ずっと一人で我慢してきただけだろ。……それで強い気になってるなら、それは違う」

「……なにそれ、私が間違ってるって言いたいの?」

「間違ってるかどうかじゃない。……俺はな、栞里みたいに“弱さを見せられる強さ”を持ってる人の方が、ずっとかっこいいと思ってる」

 空気が凍りついたようだった。

 咲良がなにか言いかけたが、そのまま言葉を飲み込んで、足早に去っていった。

 

 静かになったオフィスで、私は立ち尽くしていた。

「……神谷さん。今の、言いすぎじゃ……」

「そうかもな。でも、俺は間違ってないと思ってる」

 

 神谷さんは、私の目をまっすぐ見て言った。

「栞里。お前は、十分頑張ってる。誰にもそれを否定する権利なんてない」

「……でも、私は、誰かの足を引っ張ってるかもしれないし」

「だったら、その“誰か”が支えてやればいいんだよ。……そうやって、生きてくもんだろ」

 ――また、あの言葉。

 「支え合う」なんて、うまく信じられなかったはずなのに、今は、少しずつ心に沁みてくる。

 

「……俺は、栞里の“弱さ”が、好きなんだよ」

「……え?」

「無理に笑おうとするとことか、人を気遣いすぎて損ばっかしてるとことか。そういうのが、全部含めて“栞里”なんだろ?」

 その言葉に、胸の奥がじん、と熱くなった。

 

「俺はもう、誰かの悲しい顔、見たくない。……だから、もしお前が泣きたくなったら、そばにいてやりたい」

 

 ゆっくりと、私の手に触れるそのぬくもりが、心のなかに広がっていく。

 ああ、この人は本当に、私を“特別扱い”してるんじゃない。
 “特別”として、見てくれてるんだ――

 

 私の中で、何かが静かにほどけていった。