第二章:“迷惑”って、そんなに悪いこと?

 

 「……マジで面倒なんだよな、あの人。あれだけ特別扱いされてるのに、何も言わないし」

 コピー機の裏手、誰も来ないと思われている休憩スペースから、くぐもった声が聞こえた。

「まじでさ、障がい者雇用って言うけど、周りがどんだけ気を遣ってると思ってんの? こっちはフォローしてるつもりないのに、“ありがとう”も言わねーしさ」

 ……それ、私のことだ。

 分かる。名前を出していないとはいえ、広報部で車椅子の人間なんて、他にいない。

 胸の奥に、重たい何かが落ちた。

 私は、いつも通り、誰にも迷惑をかけないように仕事していたつもりだった。
 会議室には一番早く入り、資料は前日に出して、終業後は誰にも手を煩わせないようにひとりでゆっくり移動する。
 「ありがとう」と「すみません」は、過剰なくらい口にしていた。

 なのに、それでも。

「……うっわ、聞こえてた」

 言葉が凍る。

 気づかれないよう、静かに立ち去ろうとした私に気づいたのか、ひとりが気まずそうに笑った。

「いや……その、悪気があったわけじゃなくてさ。ちょっと愚痴というか」

「……そうですか」

 声が震えそうだったけれど、どうにか微笑んで答えた。

 大丈夫、大丈夫。いつも通り、気にしない。
 泣くほどのことじゃない――そう言い聞かせながら。

 

 でも、仕事中にパソコンの画面が滲んで見えなかった。
 目の奥がじんと熱くて、集中できなかった。
 “迷惑”って言葉が、頭の中で何度もこだまする。

 

 定時を過ぎた頃、神谷さんがやってきた。

「笠原。今日、送るわ」

「……えっ」

「いやそうな顔すんなって。たまたま営業のルートで近く通るだけだ」

 理由をつけてまで、私に手を差し伸べてくれるのが分かって、胸がまた少し痛んだ。
 どうしてこの人は、こんなに優しいんだろう。

 

 エントランスに出たところで、神谷さんがぽつりと言った。

「……昼、聞こえてたんだろ?」

 私は一瞬、立ち止まった。

「……はい。ちょっと、だけ」

「怒っていい。悲しんでいい。お前は、誰かに気を遣われるために生きてるんじゃねぇんだよ」

「……私、努力が足りなかったんです」

「……ふざけんなよ」

 声が低くなった。

「いつお前が、誰かに迷惑かけた? 車椅子ってだけで、なんで“気遣い”されて当然みたいに言われなきゃなんねぇんだ。……おかしいのは、そっちだろ」

「……」

「俺は、ただできないことがあるだけの人間を、下に見るような奴が大っ嫌いだ」

 そこには、怒りがあった。私じゃない、誰かを守ろうとしているような。
 でも、そんなふうに言ってもらったのは、初めてだった。

 

 そして神谷さんは、ふと目線を落として、静かに言った。

「……千紗も、そうだった」

「……千紗さん?」

「妹。病気でな。中学のときから車椅子だった。周りにいろんなこと言われて……俺は、何もできなかった」

 初めて、神谷さんが自分の過去を語ってくれた。

「だからさ。もう二度と、大事なやつが自分のせいで下向くの、見たくないんだよ」

 その声は、静かで、真っ直ぐだった。

 

 私の心に何かが触れた。

 これまで、誰かに守ってもらうなんて思ってなかった。
 支え合うなんて、きれいごとだと思っていた。

 でも今、私はこの人の前でだけ、少しだけ肩の力を抜ける気がしていた。

 

 「……神谷さん」

 勇気を出して、名前を呼んだ。

「……私、今日……すごく、泣きそうだったんです」

「……泣いていいんだよ、そういうときは」

 ぽん、とまた頭に手が置かれる。

 あたたかくて、優しくて、泣きたくなるほど安心する。

「……俺がついてる。何があっても、お前の味方だ」

 その言葉に、私は泣きそうになるのを必死でこらえて、小さくうなずいた。

 

 ――“迷惑”って、そんなに悪いこと?

 今日、私はその問いに、ほんの少しだけ答えをもらえた気がした。