第一章:気づかれないように生きてきた

 

 ――「それ、なんとかならないわけ?」

 唐突な問いかけに、私は指先を止めた。

 会議用のメモをノートに走らせていた手が止まり、ゆっくりと顔を上げる。目の前に立つのは、営業部の神谷朝陽(かみや・あさひ)さん。鋭くも柔らかいその眼差しが、まっすぐ私を見ていた。

「……え?」

 思わず声が裏返る。
 それでも神谷さんは、冗談でも冷やかしでもない顔で、私をじっと見つめていた。

「お前さ、いつも誰とも深く関わらないようにしてるだろ。話してても、必要最低限のことしか言わないし、自分のこと、ぜんぜん喋らない。……それ、しんどくね?」

 心を、見透かされた気がした。

 それは、誰にも気づかれないようにしてきた部分だった。
 気づかれたら、距離を取られる。腫れ物に触るように扱われる。そんなのはもうたくさんで、だから私は、極力、誰の心にも入り込まないようにしてきたのに。

 なのに――どうして、この人には見抜かれてしまったんだろう。

「……別に、そういうつもりじゃ……」

「じゃあ、なんのつもりだよ?」

 その問いかけに、言葉が出なかった。

 言えなかった。
 “迷惑をかけないために”、そうしてきたなんて、言えるわけがなかった。

 

 私は、生まれてすぐに母を亡くし、父子家庭で育った。
 それでも父はよくしてくれたし、私も「いい子でいよう」と思っていた。
 高校の頃、事故に遭って車椅子生活になってからは、その思いはもっと強くなった。

 “人に迷惑をかけちゃいけない”。

 それが私の中で、生きるためのルールになった。

 

「お前ってさ、ほんと優等生だよな」

 神谷さんの声が、少しだけやわらかくなる。

「でも、いつか疲れるぞ? 誰かに守られようとするのは、図々しいことじゃない」

「……私は、誰かに頼れるほど、強くないんです」

 そう答えるのが、やっとだった。

 

 彼は少しだけ目を細め、私の髪にそっと手を伸ばす。

 ぽん、と。
 優しく、撫でるように触れたその手に、驚いて身体が強張る。

 けれど、拒めなかった。
 こんなふうに、頭を撫でられるなんて、何年ぶりだろう。

「……俺さ」

 神谷さんが、ふと小さく息を吐いて言った。

「お前のこと、ずっと気になってた。誰にも何も求めず、一人で全部抱え込もうとする。そういう生き方、してきたんだろ?」

「…………」

「だけどさ。人は、一人じゃ生きていけねぇんだよ。……迷惑かけてもいいんだ」

 

 その言葉に、胸の奥がきゅう、と締めつけられた。

 迷惑かけても、いい?

 そんなこと、考えたこともなかった。
 誰かに迷惑をかけることは、絶対にしてはいけない。
 私は、ずっとそうやって、生きてきたのに。

 

 気づいたら、涙がにじんでいた。

 拭う前に気づかれてしまうのが怖くて、私は思わず視線を落とす。

「ごめんなさい……」

「謝るなって」

 神谷さんは、低く笑って言う。

「泣いたっていいし、誰かに助けてもらったっていい。……それが、“生きてる”ってことだろ?」

 

 私は、小さくうなずいた。
 そのときはまだ、信じ切ることはできなかったけど――
 それでも確かに、心のどこかに、その言葉があたたかく染み込んでいくのを感じていた。

 

 神谷朝陽さん。
 この人は、きっと私の世界を変えていく人なんだ――