さよならの勇気~お隣さんはクールで意地悪な産業医~

「おかけになって下さい」

 立ったままでいると先生に促された。

「すぐにお暇をするので大丈夫です。健康診断のデータを渡しに来ただけなので。後、先ほどは、本当にすみませんでした。社内での事故を無くす立場にいる私が先生にぶつかるなんて、本当に不注意でした。申し訳ございませんでした」

 深く頭を下げた。労務担当者として、自分の不注意で人様に怪我をさせるのは本当に申し訳ない。

「顔を上げて下さい。大丈夫ですから」
「お怪我はありませんか?」

 頭を上げて先生を見ると、先生が僅かに口の端を上げる。

「あれくらいで怪我をする程やわじゃないですから。一条さんの方こそ頭をぶつけて大丈夫でしたか?」
「石頭なんで大丈夫です」

 先生はクスリとも笑わず「そうですか」と冷淡な声で言った。
 石頭と言った事が恥ずかしい。

「ところで一条さん、少し顔色が悪いようですが。睡眠は取れてますか?」

 ギクリと心臓が跳ね上がる。社員の健康を守るのが仕事の私が不摂生をしていることを知られる訳にはいかない。

「大丈夫です」
「座って下さい」
「でも、すぐに行くので」
「いいから」

 有無を言わせない強い口調に、仕方なく机前の椅子に腰かけると、先生が立ち上がり、私の近くに来る。
 それからじっと私の顔を見つめる。至近距離で先生の視線を感じて頬が熱い。

「あの、これは……」
「目の下にクマがありますね。失礼」

 そう言って、先生が私の手首に触れる。
 手首に先生の指の感触と熱が伝わって来て、ドキッとした。

「脈拍も少し早い。睡眠不足から来る自律神経の乱れですね。昨夜は何時に寝ましたか?」
「四時です」

 鋭い視線を向けられ、つい本当のことを言ってしまう。
 私を見つめる先生の瞳が僅かに左右に揺れた。

 昨夜は帰宅して、ファミレスでの仕事を復習したり、次の日の準備があったので、特に寝る時間が遅かった。

「起きたのは?」
「……七時」

 小声で答えると、先生がため息をつく。

「睡眠三時間ですか?」
「はい」

 明らかな睡眠不足で、怖くて先生の目が見られない。

「そんな生活を送っていたら倒れますよ。せめて六時間は睡眠をとって下さい。それから今日はもう早退しなさい。産業医としてこれ以上の就労は許可できません。一条さんの上司には僕から言っておきます」

 早退は困る。まだ仕事が残っている。