さよならの勇気~お隣さんはクールで意地悪な産業医~

「私の話?」
「目が腫れています」

 森沢先生の視線に、思わず顔を背けた。
 労務担当者として、いつも冷静でいなければならないのに、泣き顔を見せるなんて、情けない。
 顔を背けたまま俯いていると、先生が静かな声で話す。
 
「昼休みに資料室で泣いてましたね。何があったんです?」

 まさか、見られていたなんて。恥ずかしくて胃の底がカアッと熱くなる。

「……資料室に行ったんですか?」

 喉の奥から、何とか絞り出した声で聞いた。

「午前中巡回に行けなかったので、行ったんです」

 オフィスに危険な個所がないか職場を巡回するのも産業医の仕事だった。

「そしたら一条さんが泣いていて、その時声をかけられなかったから今聞いているんです」
「私のことは放っておいてください。先生には関係ありませんから」

 石黒くんのことを言ったら、先生にまた彼と別れろと冷たいことを言われる。そんな残酷な言葉聞きたくない。

「僕は産業医です。社員の一条さんを大きなストレスから守るのが仕事です」

 仕事と言われた瞬間、自分でも驚く程、落胆する。
 私は先生に何を期待していたんだろう。

「仕事だから、深夜のファミレスから出てくる私を待っているんですか?」
「そうです」

 胸が引き裂かれるような悲しみを感じて、膝の上の手を握りしめた。
 どうして悲しいのか自分でもわからない。ただ、先生の存在が前よりも少し大きくなっていた。

「私は一人で大丈夫ですから。他にお話がないなら失礼します」

 立ち上がろうとしたその時だった。後ろから先生に強く抱きしめられた。
 シトラスの香りに包まれ、心臓が激しく脈打った。

「大丈夫じゃないだろ。あんなに泣いて」

 言葉は荒いのに、先生の声があまりに優しくて、涙腺が緩む。
 私を心配してくれているのがひしひしと伝わってくる。泣いてはダメなのに、涙が零れた。

「先生、優しくしないで」

 声が震える。
 先生の前で弱い自分を晒したくない。
 労務のプロフェッショナルの私でいたい。

「断る。今の一条さんを見過ごせない」

 真剣な声が、張り詰めていた心の糸をブツリと切った。堰を切ったように、涙がとめどなく溢れ出す。
 私は泣きながら石黒くんの言葉がショックで堪らなかったことや、石黒くんの本心に気づけなかった自分が嫌で仕方ないことを先生に話した。

 先生は私の隣に座って、時々ティッシュで私の涙を拭きながら聞いてくれた。
 おかげで重く沈んでいた私の心は少しずつ軽くなった。