さよならの勇気~お隣さんはクールで意地悪な産業医~

「もう一ヶ月経つのに、石黒くんはまだ引っ越して来ないわけ?」

 正面に座る同じ人事部の瞳子(とうこ)がアーモンド形の目を険しくさせる。
 しっかり者の瞳子は同期で、恋愛経験も多く、会社で唯一プライベートなことが話せる相手だ。
 今もオフィスの10階にある休憩スペースで昼食を取りながら石黒くんのことを相談していた。

「お母さん、虫垂炎の手術をしたから、あまり動けなくて、石黒くんが家のことをやらなきゃいけないから仕方ないよ」

 コーヒーの紙コップを置いた瞳子が冷たい視線を向けてくる。

「ちょっとおかしくない? 一ヶ月経っていたら普通は動けるんじゃないの?」
「きっとお母さんは治りが遅いんだよ」
「住んでいなくても、当然家賃は入れてもらっているんでしょうね?」

 瞳子の指摘に頬が引きつり、苦笑いが浮かぶ。 

「まさか、払ってもらってないの?」

 信じられないものを見るような目で瞳子が見てくる。

「だって住んでないのに家賃払ってもらうのは悪いじゃない。石黒くん、今はお母さんのことで大変だし。それに石黒くんの顔を見ると言えなくなるんだよね」

 あははと笑うと、瞳子に睨まれる。

「お金のことはちゃんと言わなきゃダメよ! そんなんで一緒に暮らしたら全部曖昧になるし。それに家賃どうするのよ? 綾乃(あやの)が一人で払うのはキツイんでしょ?」
「それなら大丈夫。近所のファミレスでバイト始めたから」

 バイトを始めて二週間になり、ホールの仕事にやっと慣れて来た所だ。
 瞳子が盛大なため息をつき、頬杖をついてこっちを見る。何か言いたそうな視線が痛い。
 スマホを見ると、ランチを切り上げる時間だ。

「瞳子、話を聞いてくれてありがとう。もう行くね。今日は月に一度の衛生委員会があるんだ」

 労働安全衛生法により、衛生委員会を事業場に設けることは義務付けられていて、労務担当の私は衛生委員会に出席するメンバーの予定を調整し、開催日を決め、議題の準備をし、議事録を作ったりしている。

「じゃあ」

 お弁当箱を仕舞って、勢いよく席から立ち上がった時、誰かにぶつかる。
 その瞬間、シトラスの香りがした。