◇染織工房(午前)

⚪︎糸車の回る音が、ゆっくりと空気に溶けていく。
窓から差し込む朝の光が、木の床をやわらかく照らしていた。

⚪︎春海 結花(はるみ・ゆいか)は、織機の前に座り、今日も染め上がったばかりの糸に指先をそっと添える。

⚪︎前回の取材から数日。彼の声が、何度も脳裏に蘇る。

『あなたの色に、触れてみたい』

『僕にとっては、ただの布じゃなかった』

⚪︎まだ少し震える胸を抱きながら、それでも、ほんの少しずつ、変わりたいと思っている自分がいた。




◇染織工房・玄関先(昼過ぎ)

⚪︎玄関チャイムの音に、春海の体がぴくりと反応する。

⚪︎息を飲む。手のひらがじっとりと汗ばむのを感じながら、それでも足を玄関へと向ける。

⚪︎扉越しに聞こえてくる、低くて穏やかな声。

『こんにちは。……真白 奏多です。約束通り、来ました』

⚪︎その声に、春海の心がわずかに揺れる。
彼の声は、いつも少しだけ低くて、少しだけ優しい。

⚪︎ゆっくりと扉を開ける。

『……こんにちは』

⚪︎言葉に出せた。それだけで、胸の奥に小さな灯が灯る。


◇工房内

⚪︎並んで座った二人の間には、まだ少しだけ距離がある。

⚪︎春海は今日も染め布を織っていた。
糸の一本一本に神経を通わせるように、慎重に──だけど、どこか楽しげに。

⚪︎真白が、隣で静かにそれを見つめていた。

『春海さんが織る布、見てると落ち着きます』

『……春海、じゃなくて……あの……』

⚪︎彼女は、ふいに糸に視線を落としたまま、震える声で言う。

『ゆいか、って……呼んでもいいです』

⚪︎糸車の音が、ふっと止まる。
その瞬間だけ、部屋の空気さえも静まった気がした。

⚪︎真白は、驚いたように目を見開いて──そして、笑う。

『……ゆいかさん』

⚪︎その名前を、誰かにこんな風に呼ばれるのは、いつぶりだろう。
家庭の中で、名前で呼ばれることは少なかった。傷ついたあの日から、自分の名前が“誰かに届く”ことが怖かった。

⚪︎だけど──今、この人の口から呼ばれた“ゆいか”は、優しくて、あたたかくて。

⚪︎涙が、頬をつたっていた。

『……ご、ごめんなさい。泣くつもりじゃなかったのに……』

⚪︎真白が、静かにハンカチを差し出す。

『謝らないでください。……名前って、大事ですもんね』



◇帰り際の玄関

⚪︎外はもう夕暮れ近く。
風に揺れる草の匂いが、少し夏の訪れを感じさせる。

『今日は……来てくれて、ありがとうございます』

『こちらこそ。……ゆいかさん』

⚪︎彼の口から、ふたたび“その名前”が呼ばれる。

⚪︎その響きが、心の奥にゆっくりと、沈んでいく。
まるで、何層にも重ねた染色のように。

『また……来てくれますか?』

⚪︎春海は、顔を上げる。
ほんの少しだけだけど、自分からそう言えたことが嬉しくて、胸がじんわりと熱くなる。

⚪︎真白は優しく笑いながら、答えた。

『もちろん。これから、何度でも』