◇染織工房(ヒロイン・春海の自宅)
⚪︎5月の午後、淡い光が障子越しに差し込む。
染織工房には、草木で染められた絹糸が整然と並び、風にふわりと揺れる。静かな空間には、シャトルの規則的な音だけが響いていた。
⚪︎春海 結花(はるみ・ゆいか)、細い指で丁寧に糸を織りながら、目を伏せている。
『……この色、もう少し深くしてみようかな』
⚪︎柔らかな藤色の糸を織り込むたび、彼女の中で何かが少しずつ、落ち着きを取り戻していくようだった。
⚪︎でもふいに、シャトルの音が止まる。
⚪︎春海、胸元を押さえる。
呼吸が少しだけ、浅くなる。
『──……大丈夫。今日は……外に出なくても、いい日。ここにいれば、平気……』
⚪︎それはまるで、おまじないのようだった。
⚪︎小さな頃に味わった出来事は、未だに彼女の世界を囲っていた。
あの日、聞こえたあの音、あの匂い。忘れたくても、体が勝手に覚えてしまっている。
⚪︎だから春海は、通信制の大学を選び、家の中に工房を構えて、静かに過ごしていた。
でも、それは“逃げ”ではないと、自分に言い聞かせている。
◇白鷺大学 文芸学部 図書室
⚪︎広いガラス窓の向こう、春の木漏れ日が揺れる午後。
ヒーロー・真白 奏多(ましろ・そうた)は、黙々と資料に目を走らせていた。
⚪︎彼は出版社の社長の息子という立場ながら、奢る様子は一切ない。
編集志望で、学生ながらすでに雑誌に数本の寄稿をしていた。
⚪︎整った顔立ち、落ち着いた所作。周囲の女子学生たちが時折視線を向けるが、彼は気づいていないふりを貫いていた。
⚪︎彼の目は、目の前の論文に釘付けだった。
『……“植物染料が心に与える影響”。──春海 結花? 通信課程……?』
⚪︎その論文は、色彩が持つ静かな力について綴られていた。
トーンは控えめで、学術的な内容のなかに、かすかに“痛み”のようなものがにじんでいる。
⚪︎──この人は、何かを抱えながら、それでも「色」を信じている。
⚪︎真白は無意識に手帳を開いて、ペンを走らせていた。
『──この人に、会ってみたい』
◇大学広報センター(数日後)
⚪︎真白、論文のコピーを片手に、静かに口を開く。
『この方に、取材をお願いしたいんです。学内の特集企画で』
『結花さん……ですね。通信課程の方なので、大学にはほとんど来られません。ご住所も非公開です』
⚪︎職員の言葉に、少しだけ残念そうな表情を見せるが──
『……では、手紙を書いてもいいですか? この論文を読んで、どうしても伝えたいことがあるんです』
⚪︎静かだけれど、真白の言葉には不思議な“熱”があった。
◇染織工房(夕方)
⚪︎春海がポストから手紙を取り出す。
表書きの丁寧な筆跡に、一瞬だけ手が止まる。
⚪︎自室に戻り、恐る恐る封を開ける。
『──あなたの色に、触れてみたい。そう思いました。
春海さんが織る色には、言葉にならない優しさと、静かな強さがあります。
もしご迷惑でなければ、お話を聞かせていただけませんか』
⚪︎丁寧な文面に、春海の胸の奥が、わずかに熱くなる。
⚪︎──こんな風に、自分の“織ったもの”に向けて、言葉をくれた人がいたなんて。
⚪︎嬉しい。けれど、怖い。
顔を見て、声を聞いた瞬間に、また身体が動かなくなるかもしれない。
『……でも、私は』
⚪︎ふと、機の前に戻り、指先で絹糸をそっとなでる。
『今の私は、あの頃の私じゃない──はず』
◇春海の家・門前(後日)
⚪︎5月の終わり、風が少しずつ夏を運びはじめる頃。
⚪︎真白は、手に資料を持ち、春海の家の門前に立っていた。
少し緊張した表情で、インターホンに指を伸ばす。
『春海さん。真白 奏多といいます。
突然でごめんなさい。──少しだけ、お話できませんか?』
⚪︎インターホンの向こうで、足音が止まる。
⚪︎玄関のすりガラス越しに、誰かの気配。
⚪︎春海は、扉の内側で立ち尽くしていた。
心臓が早鐘のように打つ。
ドアノブにかけた手が、震えている。
『(怖い、でも──)』
⚪︎その声は、どこか優しく、誠実だった。
彼の言葉が、染織と同じ“静かな色”で語られている気がした。



