翌日。朝の教室はまだ半分ほどしか席が埋まっていない。
 心羽はいつも通り静かに席に着き、教科書を机に並べた。昨日のことが頭を離れない。
 傘の下で並んで歩いた距離。和成の肩越しに見た雨粒の光。その全部が、普段なら気にもしないのに、やけに鮮やかに記憶に残っている。
 スマホを取り出し、LINEを開く。昨日届いていた『ありがとう』のメッセージがまだ未返信のままだ。
(返さなきゃ……でも、なんて?)
 無理に返すと、何かが壊れてしまいそうで、結局スマホを伏せてしまう。
 「おはよう!」
 聞き慣れた声に顔を上げると、和成が笑顔で手を振っていた。
 心羽は慌てて小さく会釈するだけで、視線を逸らした。頬がじんわりと熱い。
 教室の後方からその様子を見ていたのは幸輝だった。
 眉を寄せ、無言で席に着くと、視線を窓の外に投げた。
(和成、まただよ……誰にでもああやって……)
 ため息をひとつ吐く。
 昼休み、心羽が一人で弁当を広げていると、はるかが近づいてきた。
「ねえ、今日一緒に食べない?」
 はるかの声は控えめだが、期待を滲ませている。
 少し戸惑った心羽は、それでも頷いた。
 二人で机を並べて食べ始めると、はるかがぽつりと聞いた。
「心羽ちゃんって、和成くんと仲いいの?」
 箸が止まる。
「……別に」
 心羽は目を逸らし、俯いた。
「そっか」
 はるかの笑顔は少しだけ曇った。彼女は人の気持ちを読むのが得意ではないが、この場の空気が少し冷えたことだけは感じ取った。
 その時、和成と幸輝が通りかかった。
 和成は軽く手を振るが、幸輝は目を合わせない。
 小さな違和感が胸に残った。

 放課後。体育館裏で和成は幸輝を呼び止めた。
「お前さ、最近変じゃない?」
 幸輝は腕を組んだまま視線を逸らす。
「別に。ただ……お前が誰にでも優しいの、前から好きじゃないだけだ」
 和成は言葉を失った。幸輝は本気でそう思っているのだと、その声でわかった。
 だが理由を聞く前に、幸輝は踵を返して去っていった。
 その夜、心羽は机に向かっていた。
 ペンを持つ手が止まり、気づけばスマホを手に取っている。昨日から返していないメッセージが、画面に表示される。
『ありがとう』
 たった五文字。なのに返せない。胸の奥で何かが絡まっているようだった。
 一方、はるかは自分の部屋でスマホを操作していた。フォルダに入っている写真の一枚に視線が止まる。
 そこには昨日偶然撮れた、和成と心羽が傘の下で並んでいる後ろ姿。
「……二人、いい感じじゃん」
 呟きながらも、胸にちくりと痛みが走る。
(私って、入る余地ないのかな……)
 幸輝はその頃、体育館で一人ボールを投げ続けていた。
「何で俺、こんなにイライラしてんだろ……」
 ボールがゴールネットを揺らす音だけが、虚しく響いた。
 誰もがそれぞれの想いを抱えたまま、その夜は静かに更けていった。
【終】