―待ち合わせは、                   名前を忘れた恋の先で―

それから、私たちの間には──
“秘密を知っている者同士”だけが共有できる、特別な静けさが生まれた。

 

音楽室の前を通るたびに、私は無意識に足を止めるようになっていた。
それはまるで、呼ばれているような感覚だった。

そんなある日。
扉の隙間から、あの日と同じ旋律が、ふわりとこぼれ出ていた。

「……やっぱり、おまえか」

弾き終えた彼が振り向き、私と目が合った。
けれどもう、驚きも動揺もなかった。

「……黙っててくれて、ありがとな」

彼は照れたように言って、そばに置いてあった椅子を少し引いた。
迷った末に私は、その椅子にそっと腰を下ろした。

 

沈黙を破ったのは、彼の方だった。

「この前のノートの話だけど──」

「えっ……」

「ほんとに、いいと思ったんだよ。おまえの言葉」

 

頬が、かぁっと熱くなる。

「……ありがとう」

 

彼の手元に目を向けると、白くて長い指が鍵盤をなぞっていた。
ごつごつした野球の手だと思っていたのに、その動きはどこまでも繊細だった。

「ピアノ、いつから?」

「小さい頃から。……でも、皆にはナイショだけどな」

そう言って笑うその横顔が、少しだけ切なげで、私は目を逸らした。

「……なんか、落ち着くんだ。音も、おまえの小説の言葉も」

 

それが、初めてだった。

誰かが“私の好き”を、ちゃんと見てくれた瞬間だった。

 

──放課後の音。
それは、ピアノの旋律と、心に響く静かな言葉。

ふたりの距離は、まだ曖昧なまま。
けれど確かに、少しずつ、近づいていた。