―待ち合わせは、                   名前を忘れた恋の先で―

高校の許可を取って、大翔くんとふたりで母校を訪れたのは、日曜日の午後だった。

正門をくぐると、懐かしいはずの空気が胸の奥をふわりとくすぐった。
けれど、その空気の中に自分の記憶が結びつくことはなくて、
私はただ、「ここにいたことがあるらしい」という不思議な気持ちのまま、校舎の中へと足を運んだ。

「こっち」

大翔くんが歩き出す。
迷いのない足取りで、校舎の階段を上がり、3階の図書室を通り過ぎて、4階へ向かう。

そして、音楽室の前で、静かに立ち止まった。

「……ここだよ」

扉を開けると、ふわりと冷たい空気が頬にふれた。

誰もいない、昼下がりの音楽室。
窓際のカーテンが揺れ、その隙間から差し込む光が、
静かに床のタイルを照らしている。

「……ここ、覚えてる?」

大翔くんの声が、背後からやわらかく響く。

私は静かに首を振った。

「なんとなく見たことある気がするけど……
記憶に、はっきりとは残ってないの。ごめんね」

彼は「ううん」と小さく笑いながら、
部屋の隅にある椅子を引いて、私にも座るように促した。

私は、その隣に腰を下ろす。

しん、とした空間に、ふたり分の気配だけがあった。

「ここでさ……
紬が初めて、オレの“秘密”を見ちゃったんだよ」

「……秘密?」

「うん。朝早く来て、こっそりピアノを弾いてたの。
誰にも言ってなかったんだけど、
たまたま来た紬にバレちゃって」

私は思わず彼の顔を見た。

「……ピアノ?」

「そう。
高校ではずっと野球部だったし、ピアノなんてキャラじゃないって、
誰にも言えなかったんだよね」

彼の言葉は、どこか懐かしさをまとっていて、
それがまた、私には“知らない自分”を突きつけてくる。

──ここにいた“私”。
彼と、なにかを交わしていた“私”。

「……ごめんね。
きっと、そのときの私は、びっくりしながらも笑ってたんだろうけど……
今の私は、うまく想像することしかできないの」

私の声に、彼は少しだけ目を伏せてから、穏やかに微笑んだ。

「それでもいいよ。
今の紬に、少しでも“そのとき”を感じてもらえたなら、
それだけで十分だから」

私は静かに頷いた。

窓から差し込む光が、
どこか懐かしさを帯びたまま、ふたりを包んでいた。

──それは、思い出せないけれど、たしかに“心”が動いた時間だった。