石楠花の恋路

腕時計を⾒つめる正博のもとに駆け寄った幸枝は、⼀度本社のほうを振り返って柔らかな笑みを⾒せた。幸枝は颯爽と歩く正博に付いて⾏くように駆ける。
「先程本社の中を⾒たとき、 階段の踊り場に箒のあるのを⾒つけたんです。この辺りに誰かうちの⼈がいるかもしれない……ひとつ、⼿掛かりが⾒つかりました」
「良かったな、明⽇にでもまた此処に来れば会えるかもしれないな」
⼆⼈は⽇の落ちた隅⽥川沿いを歩いていく。幸枝は家族や会社の⼈々との再会の兆しにやや軽い⾜取りで歩いているが、⼀⽅の正博は以前任務を担当していた時のように周囲に⽬を配りながら動いているようである。
東京に戻った正博には、⼆つの懸念があった。 ⼀つは幸枝についてである。 戦争が終わってからというもの、 治安の不安定なこの街は安全であるとはいえない状態にある。 激戦となった戦争終盤に甲州の⽥舎で暮らしていた幸枝は、今の東京には不似合いなほどに可憐で⼩綺麗で、 ⾦⽬の物も持っている。幸枝が⼀⽂無しの荒くれにでも襲撃されれば、彼⼥はきっと防御出来ず巻き込まれる。幸枝を襲うのが荒くれならまだ良い話で、最も懸念すべきは進駐軍だ。⼀部の⾒境の無い奴等には⼀⽷たりとも触れさせたくないのである。ただ、問題は⾃らの今後がはっきりしないことである。これが正博のもう⼀つの懸念でもある。現在のところ⾜は付いていないようであるが、海軍時代は随分と⾮合法なことをしてきたので⾃らの⾝の安全にも不安は残っている。