正博の場合、これまでは海軍の名⾨⼀家の⼈間であることもあって伝⼿(つて)でどんなものでも⽤意することができたのだが、 海軍そのものが軍として機能しなくなった今⽇(こんにち)においては、もとあった権⼒も⽔泡に帰してしまっている。⼤企業の令嬢にこんな⽥舎の⼩道を歩かせるとは、情けなくなったものである。
「いいえ、こうして⻑津さんとゆっくりと歩くのも……良いかもしれません。 今迄(いままで)は⼀緒に歩いていても緊張感がありましたから、新鮮に感じます」
幸枝の⾜取りは東京にいた時よりもゆったりと軽やかなものである。
「そうか」
「ええ」
⼆⼈は⾊づく甲州の⼭々を背に、駅のある町へ向かう。屋敷の⽬前に広がっていた果樹園は丸々とした葡萄の実に彩られ、今⽇もたっぷりと秋の陽の光を浴びている。その景⾊は徐々に離れ、気が付けば⾞窓の向こう側で流れる眺めは美しい⼭脈から都市へと変化していた。
いよいよ帰京の時である。列車の席に横並びで座る正博と幸枝は、それぞれ膝の上に拳を揃えて通路を⾒ていたり、胸元で両⼿をまごつかせながら外を眺めていたりと落ち着かない様⼦であった。 ⾞窓から⾒えるのはひたすらに続く荒れた景⾊で、幸枝も新聞やラジオで空襲のことは知っていたし、東京がついこの間まで空襲を受け続けて焼け野原になっていることも⼗分理解していたが、荒屋(あらや)のようなバラックが⽴ち並び、その家の前で⾛り回るぼろぼろになった枯草⾊の服を着た⼦どもたちの姿を⾒ていると、どうにも可哀想に⾒えた。かつて⾒たあの勇壮で先進的な帝都の街は、跡形も無く消え去っている。