幸枝は話半分のつもりで正博の話を聞きながら、脳裏に彼との様々な出来事を思い浮かべていた。 初対⾯は寒い冬の⽇で、 正博は外套(がいとう)を⽻織っていても分かるほどに頑丈な体つきの⻑躯、 無駄のないスマートな⾝のこなしであった。しかし⼈柄はそんな物々しい外⾒とは裏腹に誠実なように⾒えたし、実際そうであると信じている。 仕事に関する疑問点はその場で答えられるほどに頭脳明晰でありながら、 威勢があり、 正義感もある⼈物だ。──『今この瞬間も、 警察や憲兵がこちらを⾒てはいないか、 他の武官が追跡してはいないか、 挙動の怪しい者は居ないか、 本件が他⼈に知られず、 貴⼥に危害が及ばぬよう常に気を張り巡らせながら、 貴⼥含め周囲にそれを悟られぬよう細⼼の注意を払っています』──(かぶと)町ではこんなことも⾔っていた。 冷えた夜の酔いの回った⾝体に⾃らも寒さを感じているだろうに上⾐を掛けてくれる気の利いた優しさもある。ある夏の晩の浅草では彼が別の任務に付いているところに遭遇し危うく命を取られそうになったが、 今思えば、あの時正博がいなければきっと死んでいた。 ⾃⾝の疑問を「好意」で解決するのならば、 正博が相⽅の胸倉を鷲掴みにして怒鳴りつけたのも彼⼥を守るため、或いは彼⼥に⼿出しする他⼈を許せなくなったからだと説明が付く。 普段涼しい顔をしている彼にしては珍しく、 明らかに⾎相が変わっていた。それ以降あの時と同じ調⼦の声を聞いたのは、出陣学徒壮行会で憲兵に張り倒された⽇だけである。