ゆったりとした時の流れる甲州の空の下、 町ではちょっとした騒ぎが起きていた。 今しがた⼊ってきた列⾞の中にあの海軍少将の次男が居るらしいという噂は彼が駅を出る前には町の中⼼部に知れ渡っていて、駅前には⽼若男⼥様々な⼈が集まっている。
駅員に切符を⼿渡して颯爽と改札から出てきたその⼈は⽩い詰襟(つめえり)に⾝を包み、引き締まった表情で歩いていた。周囲の⼈々はあれが醸造所の近くの屋敷の家主の次男坊だとひそひそ話をしてはいたが、誰⼀⼈彼に近づくことはなかった。 観衆を⼀瞥(いちべつ)飄々(ひょうひょう)とした表情で駅を抜けていった彼の背中は多くの⼈の⽬に様々に映っていた。
駅を出た彼はすたすたと町のはずれ、醸造所のほうへ向かう⼩道へ進んでいく。 市街地を抜けると周囲は途端に静まり返り、 頭上には悠々と空を駆ける⿃の姿が⾒える。こんなにのんびりとした景⾊を眺めるのはいつぶりだろうか、きっと最後にこの場所を訪れて以降、⼀度もこんな景⾊は⾒ていなかった。 激務続きで気がつけば外地に居たし、つい昨⽇⼀昨⽇まで⽬まぐるしい環境の変化の渦中で、⽂字通り⽬も回るような気分で過ごしていたのだ。彼は⼀度歩みを⽌め、⼩道の中央に⽴って深呼吸をした。 ざわざわとした森の⽊々の⾹りが⿐を抜けて肺いっぱいに⼊り込み、背中を押すように町からの⾵が吹いてくる。彼はまたその⾵に押されたように歩き始め、 遂に⻑年⽬指したこの場所に着いた。 荘厳な出⽴(いでたち)のこの建物と背後の林は、どこか訪れる者を歓迎するような温かみを⾒せ、その下には広い前庭、さらにその⼿前には馴染みの⾨番が⽴っている。