大雪の厳しい冬を乗り越えた甲州の地にも、麗らかな春が近づいてきた。世間を見てみれば、絶対的国防圏であった島を二つ失い、いよいよ大都市への攻撃も始まるのではないかという緊迫した状況であったが、この田舎のはずれに構える屋敷の広間は石楠花(しゃくなげ)の花弁に飾られ、静かで穏やかな日々が流れている。幸枝も気が付けばこの地で過ごして早一年、鳥の(さえず)りで目を覚ました彼女は朝食のために食堂へと階段を降りていたが、一階に降りたところで騒ぐような声が聞こえたので、一体何があったのかと気になって声のするほうへ歩みを進めた。
薄らとあの花の香りのする玄関の脇にある窓からは、門番をしている小野木の前に誰かが立っているのが見えた。騒ぎの正体はその人であるらしい。幸枝は暫くその様子を眺めていたが、小野木の応対している人の姿は彼に隠れて見ることができない。そうこうしているうちに朝食の時間になり幸枝は食堂へと向かったが、食事を終えて部屋へ戻るときもなお騒ぎは続いていた。
「朝から何の騒ぎかしら」
外を眺めているうちに時は過ぎ、八時を告げる壁掛け時計の音が遠くから聞こえる。日が高く昇り始めても去る様子のない招かれざる客人は、いっそう騒ぎ立てている。その(わずら)わしさに我慢ならなくなった幸枝は、とうとう玄関を開けて外へ出た。
「少しくらいいいじゃあないか、俺とお前の仲だろ」
「それとこれとは関係ないだろう」
幸枝には門番と訪問者が言い争っているように見えたが、実際、彼はまったく冷静で、訪問者が小野木に噛み付くように話しているのであった。