『幸枝さん、甲州では元気にしているかい。毎月手紙を送ると言っていたが、近頃は忙しく書くことができなかった、すまない。というのも、数ヶ月前大尉に任ぜられ、命を受けて外地へ赴いた。この手紙も今台北で書いているのだが、今後は連絡をすることが難しくなる。恐らくこの戦争が終わるまでは外地に居るから、幸枝さんに会うことの叶わない日が続き、君を気にかけるばかりだ。ただ、必ず甲州へ迎えに上がるから、幸枝さんも健康に過ごしていてくれ。困ったことが有れば留守居でも門番でも使用人でも何でも使って構わないし、甲府の研究所を頼っても構わない。彼らも君を守る者だ。もう少しの間待っていてくれ。』
台湾から届いたというその手紙は戦時郵便ではなく切手さえも貼られていなかったが、筆跡は確かに彼のものである。正博からの手紙の内容は相変わらず幸枝を案じるものであり、普段と何一つ変わらぬ冷静な言葉が綴られていた。この後続けて年の瀬には父から再び手紙が届き、家のある日本橋に空襲があり離れが焼けたことが書いてあった。幸枝はこの空襲を新聞で知ってから気を揉んでいたが、女中の紹子とお綾を里へ返し、父と兄で朝から夕方までは仕事、夜に離れの修繕をしながら過ごしているらしく、どうにも悲しいような寂しいような気分になりながらも、家族が健在なことに安堵を覚えたのであった。
台湾から届いたというその手紙は戦時郵便ではなく切手さえも貼られていなかったが、筆跡は確かに彼のものである。正博からの手紙の内容は相変わらず幸枝を案じるものであり、普段と何一つ変わらぬ冷静な言葉が綴られていた。この後続けて年の瀬には父から再び手紙が届き、家のある日本橋に空襲があり離れが焼けたことが書いてあった。幸枝はこの空襲を新聞で知ってから気を揉んでいたが、女中の紹子とお綾を里へ返し、父と兄で朝から夕方までは仕事、夜に離れの修繕をしながら過ごしているらしく、どうにも悲しいような寂しいような気分になりながらも、家族が健在なことに安堵を覚えたのであった。



