石楠花の恋路

日課を終えた門番の穏やかな声を聞いた幸枝は本を閉じて席を立ち、自室の扉を開けた。
「下で今日の昼のことを聞かせてもらいましょうか」
幸枝は何も言わず廊下へと出て小野木の後をついて階段を降りてゆく。
「心配せずとも、必ずしも報告するとは限りませんから。ただ、私も役目のひとつとして伊坂様の身に起きたことを把握することも求められているので、仕事ということでお付き合いいただければ……」
小野木の一瞥(いちべつ)した居間には留守居の菅沼夫妻の姿がある。居間に人の在るのを確認した彼はくるりと背を向け、少し奥まったところにある薄暗い廊下へと歩みを進めた。数歩進んだところにある扉に手を掛けた小野木は、ひとつ幸枝を見てこう告げる。
「差し支えなければ、私の部屋で話を伺いたいのですが……変な目論見は有りませんので、ご安心を」
「ええ……入らせてもらいますわ」
幸枝は小野木の促す先へと進み、部屋の中へ入る。室内には机と椅子とベッドに小さな棚だけが置いてあり、壁にハンガーがいくつか吊るされた殺風景な部屋に見えた。半分だけカーテンの閉められた窓からは屋敷の前庭と門が見えている。彼女に続き自室に入った小野木は扉を閉め、日報を書くためだけに置いてある机用の椅子を差し出した。
「それで、今日のことですが」
引き出しから適当な紙を取り出した小野木は、立ったまま机に向かい鉛筆を走らせる。何かを書き終え鉛筆を置くと、彼は椅子に座った幸枝の目線まで腰を下ろして尋ねる。
「誰から何をされたのですか。話せる範囲で構いませんが、此の所町の方にも行かれていませんでしたし、甲府の海軍の研究所の方も見えませんでしたし……果樹園か、醸造所ですか」