正博は年が明ける頃、小野木に宛てた手紙を送っており、門番の彼は配達人の手から受け取ったその手紙をオーバーコートの胸元に一日しまっておいた。晩になり仕事を終え床に就く直前、小野木はその手紙を開封し、便箋に綴られた文章を読み始めたのであった。信頼する別邸の門番へという宛名の筆跡には若干の緊張が表れており、「以下他言無用、特に幸枝さん。」と律儀に書かれている。小野木はその一言が何を意味しているのか分からなかったが、読み進めると霧が晴れるようにそれが分かっていった。紙に滲んだインクが作り出す文字ひとつひとつを流れるように見ていると、まるで本人が目前に立ち話をしているのかと錯覚する。
「幸枝さんは元気にしているかい。これから告げることは小野木君を信頼して伝える、決して誰にも言わないと約束してくれ。俺はきっともうじき大尉の任を受け、外地へ行かなければならなくなる。無いとは思いたいが、万が一のことが有った場合には君が甲州での幸枝さんの面倒を見てやってくれ。前も伝えたように、君は俺の身代わりだ、信頼している。俺も愈愈(いよいよ)外地へ赴かなければならない、京城(けいじょう)台北(たいほく)は確実だ。下手なことは起きないに越したことはないが、ここは一つ思い切って君に伝えておこう。幸枝さんは東京に居る間、何度か俺に『何故こんなに良くしてくれるのか』と尋ねていたが、その答は『愛』だ。俺がこんな言葉を使うのは可笑しい気がするし自分でも信じられないが、彼女の可憐さと直向(ひたむ)きさ、強くしなやかなこころに惹かれた。