幸枝はそれだけ言い残すと、遅れを取らぬようにと兵曹長の後ろへ駆けて行った。実は次の樽に移り、再び櫂を手に樽の中を混ぜる。ただ、幸枝の一言が頭に焼き付いて櫂は次第にゆっくりと動き、やがて止まった。あの女の目が気になる。伏し目の長い睫毛(まつげ)、こちらを覗き込むような透き通った瞳に思わず吸い込まれそうになる。今にも櫂を握る自らをちらりとでも見るのではないかと気が気でない。しかし彼女は醸造所を出るまで一度も此方(こちら)には目もくれず、振り返ることもなかった。
見学は数十分のうちに終わり、早々に一行は醸造所を出ることになった。幸枝はまた兵曹長のやや後ろに立ち、大尉と夫妻の握手を交わす様子を見ている。また、実は醸造所の入口から夫妻と一行の挨拶するのを眺めていたが、幸枝が自動車に乗り込もうとしたとき、ふと足が動いて彼女の腕を掴んでいた。少女は突然腕を引かれたので驚き、小さな声を出した。
「また……うちに来てください」
実はそれだけ告げて再び醸造所の方へ走って行った。幸枝は駆けていく後ろ姿を見て、変な人だと思っていたが、そんなことを考えるうちに屋敷に着き、ここで海軍の三人とも別れた。
自動車を降りると、
「彼奴にもよろしく伝えてくれ」
と大尉と少尉が告げて、運転席の兵曹長も鍔に手を当て会釈をしている。
「ええ、きっと伝えておきます」
幸枝は自然な作り笑いで応えた。自動車の走り去る音を背に屋敷に立ち入ると、まず門番が出迎える。