「お待ちしておりました」
「ああ。伊坂さん、この望月醸造所の所有者、望月理(もちづきおさむ)さんと多恵(たえ)夫人だ」
夫婦はこのゆったりとした田舎の気風と同じくして、その表情から穏やかな人物であると見てとれる。口調はゆったりとしているが、町の人々や実から聞いた訛りの強い言葉はなく、いつも耳にして、或いは口にしてきた言葉と特に相違なかった。実はこの人達も異郷者だったのだろうか。今日はよろしくお願いしますと挨拶を交わした大尉と主人の側には夫人がにこやかな顔をして立っている。幸枝は兵曹長の後ろを遠慮がちに付いていき、醸造所の中に入った。
数日前に道端から見た大きな倉庫に見えた建物の中は薄暗く、春だというのに数週間前に戻ったようなひんやりとした空気が漂っている。幸枝は夫婦の説明を聞きながら、時々背伸びをして樽を見てみたり、熟成中のワインをかき混ぜて(おり)の浮き沈みする様子を見たりしている。|櫂(かい)を手に樽の中を混ぜているのは実である。
「来ましたね」
海軍の三人が通り過ぎていったのを横目に幸枝を呼び止めたのは実である。幸枝は判然としない口ぶりで軍人らを見ながら答えた。
「今日なら見学できると仰るから……此処にあるのは白だけですか」
青年の混ぜている樽は底が見えそうなほどに透き通っている。
「はあ、白のほうは酒石(しゅせき)が沢山出ますから。海軍が酒石を欲してくれなければ、今頃どうなっていたか」
「大変ですね」