「えっと、あの……」
顰面(しかめっつら)の青年を前にしてたじろいだ幸枝はその場で棒立ちになる。まさかこんな山に他に人がいるとは思わなかっただけに先客がいたことに驚き、さらにその先客の言っていることの意味が分からなかったので脳が凍結したように感じたが、おそらく「誰だ」と尋ねているのだろうと思って、不安ながらも答えてみる。
「あの御屋敷にお世話になっております者です」
幸枝の指す先にはこの町の者なら誰もが知る海軍軍人の邸宅である。昼休憩の後の時間をのんびりと過ごしていた青年にとっては、町の誰もが噂に話す東京の女が誰なのか気になって仕方が無かった。年が変わる前には町中で、あの豪邸に東京からの客人が来るらしいという噂が立っていて、さらにその客人が大層な別嬪(べっぴん)であると聞いたのでどんな女かと気になっていたが、そのいでたちからして、もしやこの女がその客人かもしれないとささやかな好奇心が自らの心を煽るのである。さらりと揺れる個性的な黒髪の裾、仔鹿を思わせる細く小さい後ろ姿に春の小鳥のような麗しい声は、この田舎でワインの仕込みの仕事一筋の彼の心にも小さな火を(くすぶ)らせようとしていた。
「……長津さんとこけ。うらー村松実(むらまつみのる)だ、そこの醸造所で働いてんさ。おまん、こないだ来たっつうおじょーもんじゃん?」
青年の指の先には屋敷からここに来るまでに通った望月醸造所が建つのみである。
「はあ、あの醸造所のかたですか。以前御宅のワインをいただきましたけれど、美味しかったですよ」