山へ行くと、どんな景色が見えるのだろうか。この大きな屋敷の二階の窓から見える果樹園は、もっと小さく見えるだろうか、それとももっと広く見えるだろうか。石楠花の咲く小径(こみち)は、どんなに華やかな香りに包まれているだろうか。幸枝は心を(おど)らせながら屋敷を出る。留守居や使用人長、それに門番は口を揃えて一人は従者を付けて欲しい、主人の次男も外出時は必ず従者を付けるようにと厳しく言ってあるからと幸枝が一人で屋敷を出るのを拒んだが、聞くところによれば山には遊歩道が整備してあるというから問題ないだろうし、私だって一人で行動できる、東京という大都会で生きてきたんですよ、長津さんは過保護なんです、などと言いながら一人で山への道のりを歩くことにした。
無理に外出したが、車も人も通らず、ただ木々の風に揺れる音だけが聴こえる一本道では起こるものも起こらないように感じられる。町とは反対方向に果樹園に沿って歩く。柵の向こう側では木に水をやっている少年の姿が見えて、さらにその向こうにも同じく水をやる少年が見える。広大な果樹園の終わりまで歩いて暫く経つと、左手に見えていた果樹園に向かい合うように、右手側に「望月(もちづき)醸造所」と書かれた看板の下がった小さな門と倉庫のような大きな建物がある。幸枝は、もしやこれが正博の言っていたワインの醸造所かもしれないと足を止める。特に人の姿は見えないが、門の奥に立つ蔵の前にはいくつかの樽の積まれているのが見えた。それを横目にさらに歩くと盆地の終わりと見える傾斜が始まり、聞いた通り、確かに遊歩道として丸太の階段が林の中へ続いている。