「まあ、綺麗なお花……この辺りで採れるんです?」
ある朝、玄関のお椀型の花瓶に張られた水面(みなも)に浮かぶ石楠花を見た幸枝は、使用人にそう尋ねた。中心が白く、端に向かうにつれて桃色の濃くなる花弁からは、鬱蒼(うっそう)とした森の中でひそりと漂うような、控えめな甘さを感じる香りが漂っている。
此方(こちら)此処(ここ)から少し離れたところにある山から()ったものでございます」
落ち着いた静かな声で応答するのは使用人長である。
「へえ、素敵だわ……その山に行ってみたいわね、きっと景色も綺麗だわ。山頂からこの町と果樹園を見渡してみたい……そんな気がしてきます」
厳冬(げんとう)の過ぎゆく盆地にも穏やかな鳥の声や山の動物達の足音が戻り始めている。幸枝はというと、東京に居ずともその身分は伊坂工業の社員であるから挺身隊(ていしんたい)に入ることもなければ田畑に出ることもなく、たまに使用人とともに歩いて数十分の町には出るが従者を携えたモガは周囲から絶え間なく好奇の目を向けられるので肩身が狭く、また東京よりも冷え込み雪に覆われたこの地では外へ出る気も起こらないので、冬の間は屋敷の中で日々を過ごしていた。東京では誰もが羨むような煌びやかな世界に囲まれて育ち、戦争が始まってからはふらりと倒れてしまうほどに特に目まぐるしい毎日を送っていた幸枝にとって、果樹園の広がる田舎にぽつんと建った屋敷の中での変わりばえの無い生活は無味乾燥なものであった。それが雪も溶けて山々に春が訪れると、それまでの抑圧されていた何かが弾けたように、どこかへ行きたい、行動したいという気持が呼び覚まされるのである。