しかしそこから一転、正博があの仕事を辞めると申し出たときにその疑いは風に吹かれるように消え去った。かつてないほどに重い表情と言葉に、彼の覚悟はただものではなく、純な気持で自分と関わっていたのだと、幸枝はそう悟り、彼を疑っていた自分が悲しくなって涙を(こぼ)した。それからというもの、幸枝は正博に対し完全に信頼を置いてきて、知人として、友人としてと徐々に親しくなって、遂に彼の力を借りてこの甲州まで来たのであるが、幸枝は初めてこれまでの正博との日々を振り返ってみて、再び彼が自分を気に掛け続けた動機が気になった。長年考え続けてきた、たった一つの疑問である。いくら職務に忠実であったとしても個人的なやり取りも幾度も行っている。仕事という枠を超えて自らを「友人」と呼んだ彼の行動の理由が気になって仕方がない。目的が金銭や名誉(ある)いは地位でないことは明らかであるが、友人と称したとしてもここまで良くしてくれるものなのだろうか。愛があるようなそぶりは一切見せず、そもそも表情で何を語るでもない正博の心情を探るのは不可能に近いことであった。
それからも幸枝と父或いは正博との手紙のやり取りは続き、年は明けて春がやってきた。別邸の玄関は石楠花(しゃくなげ)に飾られ、幸枝の心もほんの少し春の穏やかさを感じていた。東京で仕事を続ける父や兄、本社や工場の人たち、そして正博も特に変わりなく、淡々と日々は過ぎてゆく。