石楠花の恋路

幸枝はそんな事情があったのかと理解しながらも、長津の綿密な指示や根回しに驚いた。そもそも家族で使っている別荘を知人でも友人でもない、秘密裏の仕事関係で知り合った自分のためだけに数ヶ月の間で手配しただけでなく、入手しづらかったと思われる甲州までの列車の切符に駅を降りてからの自動車、そして外出に従者を付けるという徹底ぶりである。伊坂幸枝という人物を知っているからこそ(ねんご)ろに準備をしたのだろう、その心がけは東京で取引をしていた時と変わらなかった。
陽が高く昇り始めた頃、一人の使用人が幸枝の部屋の戸を叩く。扉の向こうに立っているのは食堂で見たのとはまた別の者であったが、やはり紺色のワンピースを着て、黒いコートに栗色のマフラーと手袋を身につけている。幸枝も厚く着込み、二人は屋敷の外へ出た。
「伊坂様、今日は町へお出掛けになるそうですね」
門番は白い息を吐きながら語りかける。その表情は柔らかく笑みさえ浮かんでいたが、目つきはどこか厳しく、粛々としているようである。腰の後ろで手を組み肩幅に脚を開いて立ったまま、彼は会釈をして二人を見送る。二人はすぐ真横に広がる収穫の終わった果樹園を眺めながら町を目指して歩き始めた。使用人は(うつむ)きがちに幸枝の半歩後ろを付いて歩いている。