「……長津さんも……お元気で」
出発に向けて動き出したプラットホーム──そこから逃げるように舞い戻った列車の中は、いやに冷たかった。
窓際の席に座り遠くなる景色を見つめると、紺色の外套(がいとう)に身を包んだ彼の姿。ひっそりとした(さび)しさを含んだ視線で、そして行ってくれるなと訴えるような表情(かお)で、しかしその場から一歩も動じることなく真っ直ぐに立ってこちらを見ている。
幸枝は徐々に離れてゆく彼の姿に白く細い手を重ね、その姿が見切れるまで見つめていた。膝の上に置いた右手には、ほんの数分前までともに在った彼の手の温もりが微かに残っているのみであったが、その温度も東京を離れるにつれて徐々に薄れていった。
数時間の列車の旅を経て到着した甲州の地は、冷えた風の吹く長閑(のどか)なまちである。列車を降りるとすぐ、客人を迎えに上がったと思しき老夫婦がやってきた。
「伊坂様、ようこそいらっしゃいました。長旅でお疲れでしょう、ささ、お荷物を」
深々とお辞儀をした着物の老紳士は、幸枝の持ってきた大きな旅行鞄を手に取る。
「長津様の別荘の留守居(るすい)をしております、菅沼喜三郎(すがぬまきさぶろう)と申します。そんで、これは家内のはつと申します。身の回りのことは私共に全てお任せ下さい」
「はあ、どうも……」
同じ年頃の女に切符を手渡し駅舎を出て見た景色は、実に雄大で温かい田舎の町であった。人々の足取りはのんびりとしていて、道端では子どもたちの(はしゃ)ぐ声が聞こえる。遠くを見渡してみると、周囲をぐるりと囲むように広がる山々は乾いたような色味で、それが透き通るような空に映えている。