第3話:名前を、知らなかったから
○大学の練習室
 
◇イベント翌日。
◇優結は、大学の練習室でヴィオラを弾いていた。けれど――

◆指が止まる。音が消える。
◆心がざわついて、音に集中できない。

優結(モノローグ)
「“電車でヴィオラを聴いたことがある”……」
「久賀さんのあの言葉……偶然? それとも――」


○学生寮の湊の部屋
 
◇湊もまた、その日の夜。
◇一人、静かな学生寮の部屋で、ノートPCを閉じて思考を止めていた。

◆窓の外を見ながら、誰にともなくつぶやく。


「……中学の頃、電車の中で……確か……」

◆記憶は曖昧。けれど、不思議な“引っかかり”が胸に残っていた。

湊(モノローグ)
「名前も、顔も、知らなかった」
「だけど、あの時の“ありがとう”の瞳だけは――なぜか、忘れられない」


○キャンパス内、中庭
◇後日。偶然すれ違ったふたり。

◆優結がヴィオラケースを持って歩いていると、湊が声をかける。


「……西條さん。少し、話せる?」

優結
「えっ……はい、大丈夫です」


◇並んで歩くふたり。
◇初夏の風がゆるく木々を揺らす午後。


「この前言ってた、“電車でヴィオラを聴いた”って話だけど……」
「もしかして、西條さん……その電車に、いた?」

優結(ドキッとして立ち止まる)
「えっ……」


「……なんか、そんな気がして」
「だとしたら……俺、君に何かしたのかなって」

◆優結はそっと視線を落とし、小さく首を振る。

優結
「……助けてくれました」
「高校生のとき、酔っ払いに絡まれて……怖くて、声も出せなかった私を――」
「あなたが、黙って前に立ってくれて……」

◆湊の目が見開かれる。
◆ふいに、記憶がかすかに、蘇る。



◇回想。
◆車内のざわつき。制服姿の少女。自分の前に立つ、細い肩。
◆そして――自分の声。

湊(回想)
「やめてもらえますか。彼女、困ってます」

◆湊は顔を伏せ、ゆっくりと手で額を押さえる。


「……ああ……あれ、俺だったのか」

優結
「私……あのとき、ちゃんとお礼が言えなかったから……ずっと、会いたくて」
「でも、名前も、学校も、何も知らなかった」

◆湊は、しばらく黙って優結を見つめる。


「……再会って、本当にあるんだな」
「まさか、合コンなんかで……」

優結(ふっと笑って)
「私も、信じられなかったです」


◇ふたりの間に、やわらかな風が吹く。
◇それはまるで、“偶然”だった時間を、ゆっくりと“運命”に変える風のよう。


「……ありがとう。思い出させてくれて」

優結(照れたように笑って)
「こちらこそ、あの時は助けてくれてありがとうございました」



◇その日。ふたりの間で、「あの夜」の時間が、ようやく繋がった。
◇知らなかった名前が、記憶になり、名前を呼べる関係になる。

優結(モノローグ)
「――初恋だった。たった数分の出来事だった」
「でも――私の“はじまり”だった」