血の匂いが小さなアパートに充満していた。
兄だったもの。父だったもの。二つの亡骸が転がる部屋の真ん中で加奈はただ立ち尽くしていた。
血まみれのワンピース。血に濡れた両手。
もう何も感じなかった。守りたかった唯一の光は消え世界はただの灰色になった。
彼女は、物置から見つけてきた古いロープで輪を作った。
ふと、あの夏の夜を思い出す。
兄と二人で見た、線香花火。
チリチリと燃えた、オレンジ色の小さな光。
あれが、私の人生の、たった一つの光だった。
そして、あっけなく闇に帰した、最後の玉。
ぽとり。
加奈の魂も、今、落ちた。
彼女は、静かに首を吊った。
少女の短い人生は、こうして終わった。
……だが少女の物語はそこでは終わらなかった。
死してなおその魂はこの世に留まった。
憎しみが悲しみが余りにも深すぎたからだ。
この世のものならざる存在となった加奈が最初に向かった場所。それはあの忌まわしい医者の家だった。
「ひぃぃぃ!ば化け物!」
医者は突如現れた血まみれの少女の姿に悲鳴を上げた。
だがもう遅い。
加奈は自分が今までこの男に買われ弄ばれた回数と全く同じ回数だけその身を切り刻み苦しみを与え魂ごと喰らった。
その次はあの刑事の男だった。
その次は看守だった男だった。
一人また一人と自分を汚した男たちに「復讐」を繰り返すうちに彼女の魂はより濃い憎しみと霊力で満されていった。
少女の霊はいつしか人の手に負えない「深淵の者」へと成り果てていた。
そしてまだ怨みを返せていない者たちの前にも加奈は現れた。
彼らは仲間たちが辿った無残な末路を知り恐怖に泣き叫び命乞いをした。
加奈はそんな彼らに美しくそして残酷に微笑んだ。
「ああなりたくないなら私の奴隷になれば考えてあげる」
復讐は終わった。
だが真也がいない。
憎い奴らは全て消し去った。でもあの優しい兄はもうどこにもいない。
意味がなかった。こんな世界に意味などなかった。
加奈はただ終わらない虚無の中を10年間彷徨い続けた。
そんなある日のことだった。
街の雑踏の中加奈は一人の青年を見つけた。
何の変哲もないどこにでもいる大学生。
だが加奈の止まっていたはずの心臓が大きく跳ねた。
その見た目はそう。あの優しい兄真也と瓜二つだった。
加奈はひと目で恋に落ちた。
この灰色の世界に再び光が差した。
兄がいない10年間の終わり。
今度こそこの「光」を誰にも奪わせない。絶対に。
【回想終わり】
夜「……そして今回の事件に繋がったわけだ」
長い沈黙が事務所を支配した。
やがて健太の肩が小さく震え始めた。
「う……う……あ……」
嗚咽が決壊したダムのように彼の口から溢れ出す。健太は子供のように声を上げて泣いていた。ボロボロになりながらただ泣きじゃくっていた。
やがて彼はソファからおぼつかない足取りで立ち上がった。
言葉にならない声で夜に何かを伝えようとする。
「きょ今日は……かえらぜで……もらいばず……」
そう言うのが精一杯だった。
健太は泣きながらフラフラと事務所を出て行った。
バタンとドアが閉まる。
再び訪れた静寂の中夜はソファに座りながらふーっと長くタバコの煙を吐き出した。そして誰もいないはずの天井の方を見る。
「なぁ?あいついいヤツだろ?」
『……あぁ。いいヤツだな』
頭の中にだけ穏やかな声が響いた。
夜はその声を聞くと嬉しそうに「ははっ」と短く笑った。



