春は、香りとともに。




 公成が帰っていったあと、市場のざわめきに紛れて、ふたりは再び歩き出した。

 けれど、さっきまでの穏やかな空気はすっかり消えていた。

 惟道は口数が少なくなり、足取りもやや速い。
 志野子は追いつこうとしながら、ちらりと彼の横顔を見る。


 (……なにか、お気に障ったのかしら)


 その横顔はいつも通りに見えるのに、どこか冷たい。

 沈黙のまま、買い物を終え、家に戻る道すがら。

 惟道がふと、歩みを緩めた。


 「……さきほどの方とは、どのようなご関係だったのですか?」
 

 その問いは、静かな声音だったけれど、なぜだか剣が潜んでいるようにも聞こえた。


 「芦屋さまは、昔からの知り合いです。……華族の集まりで何度かお会いしていて舞踏会でも……」

 「舞踏会……」
 

 惟道の声が、かすかに掠れた。


 「もう、お会いすることもないだろうと思っていたので、少し驚いただけです」


 志野子はなるべく、無用な誤解を避けるように穏やかに話す。
 だが惟道の沈黙は続いた。

 家の前に辿り着いたとき、志野子が小さく頭を下げた。


 「……お茶を淹れますね。あたたかいのがよろしいですか?」

 「……志野子さん」


 その呼びかけに、彼女は足を止めた。

 惟道は、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 「失礼ですが、私……少し混乱しております」

 「……混乱?」

 「さきほど、あなたが……あの方に微笑んでおられたのを見て、胸の奥が、焼けるように痛みました」


 志野子は言葉を失った。

 惟道は、それでも静かに続けた。