春は、香りとともに。





 惟道は立ち上がり、そっと志野子のそばへと歩み寄った。
 腰を落とし、膝をついて、彼女と同じ目線に立つ。


 「志野子さん。……たしかに、あなたは、かつてカゴの中の鳥だったかもしれません。華族としての責任や義務、肩書きに雁字搦めだったかもしれない。だけど……」


 志野子が、はっと息をのむ。


 「あなたは、こうして生きている。今は朝にはごはんを炊いて、洗濯をして、針を動かして……そして、私や誰かのために心を尽くしている。自由になったからこそできることなのではないでしょうか?」


 惟道の声は、まるで掌で心を撫でるようだった。


 「それに……私にとって、あなたはすでに、かけがえのないひとです」


 言葉を失った志野子は、ただ唇をかすかに開いたまま、動けずにいた。
 胸の奥で、何かが脈打っているのを感じる。
 それは、“愛”というにはまだ早く、“恋”というにはまだ遠い。
 けれど、それらを内包した、あたたかな確信だった。

 惟道が、その肩にそっと手を置いた。


 「この家が、あなたの“居場所”であってほしい。
  私は……心から、そう願っています」


 志野子の喉が、きゅっと詰まった。


 「……わたし、ほんとうに……ここにいて、いいんですか?」

 「あなたが望むなら、いつまでも」


 涙が、ひと粒、畳の上に落ちた。


「ありがとう、ございます……惟道さん」