春は、香りとともに。




 「“家”を守るとか、“役目”を果たすとか……そういう言葉に縛られていたカゴの中の鳥だったあの頃の自分に、もう戻りたくなくて」


 そして、苦笑を浮かべる。


 「先生は、そんなわたしを、きっと“弱い”と思われるかもしれませんね」

 「……いいえ」


 惟道の言葉は、少しも揺れなかった。


 「私は、あなたがそうして“言葉にできた”ことを、強いと思います」


 志野子は、ふっと目を伏せた。


 「ほんとうに、そう思いますか?」

 「ええ。
  弱い人間は、自分の傷を隠します。
  でもあなたは、今、その傷跡を私に見せてくれた。
  それは、優しさの証です」


 志野子の目に、再び涙が浮かんだ。
 けれどそれは、過去の痛みではなく、現在の温もりにふれる涙だった。