「志野子さん」
「……はい」
「過去に壊れてしまったものがあっても、
あなたの手は今、こうして人を包んでいる。
それは、壊れていない証拠ですよ」
その言葉に、志野子は思わず顔を伏せた。
「……先生は、どうしてそんなふうに……」
「それは、私もまた……“壊れていた人間”だからです」
志野子がゆっくり顔を上げると、惟道は微笑をたたえていた。
「壊れたものを抱えた人間同士が、こうして静かに日々を重ねていけるなら、それで十分だと思うのです」
雨音が、すぐそばでやさしく響いていた。
ふたりの間に、言葉以上のなにかが流れていた。
「先生……」
志野子の声は、小さく、けれど確かに震えていた。
「……わたし、誰かの“妻”にはなれない気がしているんです」
惟道は、少しだけ眉を寄せた。
「それは、なぜ?」
志野子は、指先を膝に置いたまま、ぽつりと続ける。
「過去のことが、心に残っているわけではないんです。でも……怖くてたまらないんです」
惟道は、すぐに返さなかった。
静かに湯呑を置き、志野子の言葉の続きを待っていた。



